2016年09月02日

整体から見る気と身体 片山洋次郎

整体というとどこか治療的な面があって、こういう病気や不具合だとこうすれば治る、みたいなところがある。それは整体に限らず、どの健康法もそんな感じなのだけど、この本はそんな私の固定観念を外してくれる、しかも力技でなく、自然に「ああそういう考え方はいいね」と賛同したくなるような語り口に、なんかちょっとファンになってしまった。以下、著者のこと「片山さん」と記す。

野口整体もわりと従来の治療法に対する考え方から逸脱していて、それも自分にとっては革命的だった。今の医学だと、なにか炎症や熱があったときに、抑える方法をとるけれども、野口整体では身体の変化する一種の経過としてみて、抑えることはしないで、うまく発散させることをする。それの代表例が「風邪の効用」という著書に見られる。

ところが、片山さんは野口整体ですら「こうあるべし」という思いが強いという。片山さんの整体は野口氏のように一定の方向へ導くのではなくて、受ける人の身体の様子にそってそれを促していくということだ。だから老化に伴う身体の変化、普通は腰が曲がったり背中が丸まったりするのを嫌ってそうならないようにしようと考えがちだけど、片山さんはそれを「一種の省エネ」とみる。そして少なくなってきたエネルギーでいかに効率よく過ごすか、ということを体が行っている、というようなことをおっしゃっていて、今まで老化しないように姿勢を整えることが大切だと思っていた私にはちょっとしたコペルニクス的転回だった。

もう一つ、現在増えてきているアレルギー性疾患や自己免疫疾患について。
片山さんによれば、身体はバランスをとろうとしていろんな症状をだすが、昔は感染症による炎症で、菌の感染は原因ではなく結果だとのこと。そして現在は社会環境からもっとデリケートなバランスのとり方をしなくてはならなくなって、それでアレルギーという形が増えてきている、ということだった。

病気を「なくそう」とする医学と、それをうまく「乗り越えていこう」という考え方の、片山さんの整体。人間の身体はもちろん限界があるから、医学の「なくそう」というやり方もないと大変ではある。ちなみに、片山さんによれば、死ぬ間際も「気」の流れがよくなるそうであるからして、乗り越える、ということは死ぬことも含めた大きな生命観を持たないと、容認しがたいだろう。しかし、なんでもかんでも「なくそう」という考え方でやってきた結果、現在某雑誌が特集を組んでる危ない薬や手術といったものが増えてきて、医療不信を招いていることも確かだ。

ところで喘息もちの私は「湧泉」から息を吐き出すようにするとよいのかな?などと考えたのだが、やり方が本を読んでもよくわからん。残念なことである。もっともこういうのが感覚的にわかれば喘息になってないか。
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整体から見る気と身体 (ちくま文庫)片山 洋次郎

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2016年05月10日

7月11日は世界ベンゾ注意喚起の日

精神医学関係のことをたまに調べているが、近年精神医療に対する違和感の表明がネットのあちらこちらで見られるようになった。主なものは薬物治療についてだ。
私も以前、
心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 ロバート・ウィタカー
という本の感想を書いたことがあるがいわゆる向精神薬というのは精神疾患のほかにも結構身体の病気で処方されている。この処方がきっかけで精神症状が出て精神科に行くようになり薬漬けになった、という話をわたしはこのところよく見かけるのである。

今日の記事のタイトル。
これはそういう薬による被害を集めたブログをされてる方が紹介されていたものである。
世界ベンゾ注意喚起の日 7月11日 (拡散希望)―精神医療の真実  フリーライターかこのブログ
ベンゾジアゼピン系の薬は抗不安薬として内科などでも処方されることがあるが、ウェイン・ダグラスさんという外国国籍の方が日本でめまいを起こしたときに抗不安薬を処方され、副作用が出て、大変な苦労をした。この出来事で彼はこの薬のことについて注意喚起をしようと呼びかけを始めたのが7月11日の世界ベンゾ注意喚起の日なのである。
呼びかけを行っているサイトがこちらだ。
Benzo Case Japan (サブタイトル…抗不安薬や睡眠薬としてよく処方されるベンゾジアゼピン系薬剤の注意喚起と薬害裁判について)

ちなみに、ダグラスさんの活動を紹介したブログの筆者、かこさんはご自分でも薬について被害にあわれた方をたくさん取材されており、それをまとめた本も出版されている。
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私は精神医療の真実のほうを読ませていただいた。人によっては恐怖や不安を煽るように見えるかもしれないし、実際今薬で生活されてる方には脅威を与える話も多いと想像する。もちろんかこさんのブログもそういう面があるのだが、ありとあらゆるものの影にそういう暗黒の部分がありはしないだろうか?
今、自分たちは平穏に過ごしている、が、その陰でいろんな危険にさらされている人々がいて、それはもしかしたら明日の私たちになる可能性がないとは言い切れないだろう。だって、紹介されたダグラスさんがその一例なのだし。

といっても、不安が出ることはそのことにまだ向き合える心の準備はできてないのだから、無理やり「これを知っとけ!」と押し付けるつもりもないんだけど、自分のブログだからこういうのがあるよ、と書いてみた。


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2016年01月27日

統合失調症をたどる 中井久夫(監修・解説)

患者さんたちが、中井先生の本を読み、それについての感想や自らの体験を語る。それがまとめられたのが本書になる。

中井久夫の著作を読むと、統合失調症に対するイメージがかなり変わる。文学に造詣の深い先生であることが要因の一つにはあげられるだろうが、それ以上に、この先生はスキゾ体質に親和性があって、患者さんの体験することをなんとなく表現できるのではないかと思う。単なる知識だけでこんなに共感のこもった表現ができるだろうか?とわたしなんかは思うのだ。

本書はラグーナ出版というところから出されているが、この出版社はもともと精神科病院のデイケアで出されていた患者さんの投稿をまとめた本を、本格的に仕事にするために、設立されたのだそうだ。そして現在患者さんがこの出版社で仕事をしているという。

一読して、患者さんたちが中井先生の言葉に共感し、それまでとは違う病気への認識を持ち始めたことが彼らの言葉から推測できる。
患者さんの言葉といえば生きることのつらさや生活の困難さを語ったものが多いのだが、この中の患者さんたちは、読書会での言葉ということもあり、どちらかというと精神修養に近い認識で自らの病気を語っているようだ。それは彼らが病者として呪われてしまったのではなく、彼ら自身がより完全な人間であろうとした、そして無理しすぎた、そんなイメージが浮かび上がってくる。

本書はまた、中井先生の著作のエッセンスが載せてあり、かなり読みやすいので、中井久夫著作への入り口ともなる本ではないかな、と思う。
統合失調症をたどる (中井久夫と考える患者シリーズ 1)
統合失調症をたどる (中井久夫と考える患者シリーズ 1)中井 久夫 考える患者たち

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2015年11月20日

中小企業診断士の「お仕事」と「正体」がよ〜くわかる本 西條由貴男

紙の本が読めない、とかいって電子書籍読んでるうちに、それも読む気がしなくなった。
そのうち、士業資格のことについてちょっと調べてみようかな、と思って書店で棚を見ていると、タイトルの本が目にはいる。
パラパラみるとちょっと面白そうだし、文芸の本に比べると安いので、購入してみた。

…面白い。最近読む速度が遅くなったな、と思ってたんだが、往年の(?)スピード並みに読んでしまった。
中小企業診断士というと、コンサルタントとか調査分析、というイメージがある。
もちろん、それが主な役割なのだが、他の士業と違って独占業務がないので、厳しいといえば厳しいが応用がきくといえば応用がきく。
そんな診断士の資格の取り方や、登録後の仕事、ライフスタイルまでを教えてくれる一冊。
読んでるうちにこれは診断士に限ったことじゃなくてすべての分野でいえるようなことを教えてくれるな、と思った。
特に、わたしのような飽きっぽい人間に諭すように教えてくれるのが、「S字カーブの成長」という言葉とか「PPM」という戦略を立てるための図式みたいなものの説明に照らし合わせた努力のしかた。
とにかく、最初はたくさんやってやりまくるしかないみたい。それでも初めのうちは成果がなかなかでなくて苦しいのだけど、それを乗り越えると急に成果が上がりだすという現象があるということ。成果がでないといってダメだと思う必要もないし、無駄な経験というのはないんだな、と思うことで頑張れるのかも。

スペシャリストではあるが幅広い経営知識と見識を求められるので、ビジネスに関して勉強するとしたら学校に通うより、この資格の勉強した方がいいのではないかと思った。もちろん、大学院とかビジネススクールに通ったことないので、イメージで言ってるだけだが、ほら、学校の教授って理論はいいけど実務がいまいちだったり、とかこれもイメージですね(汗

最近文章まともに書いてないので、自分でもなにがいいたいのかわからなくなってきたが、たまに読まないようなジャンルの本を読むと面白いもんだ、と思った次第。
中小企業診断士の「お仕事」と「正体」がよ〜くわかる本
中小企業診断士の「お仕事」と「正体」がよ〜くわかる本西條 由貴男

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2015年10月10日

空海 高村薫

空海ゆかりの地を取材しながらその人物像にせまる。
著者は空海を「まるで二人の人間がいるような」
というようなことを言っている。宗教家としての空海と事業家としての空海。

各地を巡り、話を聞き、資料にあたりながら、著者が最も関心を持ったのは、神秘体験とでもいうような身体体験と信仰心の関係だった。
密教の理論というよりは感覚的悟りのような教えは空海の身体体験のインパクトがなからしめているのではないかと推測する。

本の真ん中あたりで、密教法具の壮麗さに触れているが、これら身体感覚を刺激する法具が身体体験と一体になり、入我我入の装置となりつつ、やがて神秘体験として装置ではなく身体の一部として働くのかもしれないと著者はいう。
この意識と物質に関しての薄い境界は今なら迷信と片付けられてしまうであろうが、匂いや音や光は今でも意識を変えていく装置として古びているわけではない。自分の身体の延長として感じられるそれらの法具は神羅万象が仏に満ちている密教の世界にいかにもふさわしい仕掛けのようだ。

また、修行者としての空海と信仰の対象としての弘法大師、これにはやはり歴史の流れと密接にかかわっている。高野山と浄土思想との結びつきなどに触れて、このことについての文章もある。
空海
空海高村 薫

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2015年07月29日

回想の野口晴哉 野口昭子

野口整体の野口晴哉氏の弟子であり、夫人である昭子さんによる晴哉氏の回想記。

野口整体は整体といいつつも、今のエネルギーワークのような愉気やボディワークのような活元運動など身体を総合的にみるようなところがあり、なかなか不思議なものだなあと思っていた。
昭子さんの回想によれば、晴哉氏は、人が生きるか死ぬかということがわかったり、死んだ人が挨拶にきたりと、この世ならぬ霊体験というべきものを日常的に体験している人だったらしい。それと人を見抜く力の凄さと相まって、わずか10代で整体協会を立ち上げたという話も、さもありなん、と思わせる。

昭子さんは近衛文麿氏の長女である。育ちのよさがあらわれてなにごともきちんとしなければすまないところがあって、反対に晴哉氏は当意即妙、昭子さんの思惑をよそに自由闊達に物事をこなしてゆく、この正反対ともいえる性格(整体の言葉でいえば体癖ということになるのか)の取り合わせが面白い。
きちんとした昭子さんが、晴哉氏の前ではたちまち愛すべき道化のように見えてくる。もっとも自分のことはそんなに自慢しないか。

それとは別に、晴哉氏が日頃語っていた言葉をひろい集めてみると、今というか当時の人たちもそうであったのだろうが、自分の感覚や直感をするどく磨いて物事をみる、ということが出来なくなってきていると感じる。「何故分からない」という一文では、晴哉氏の洞察力に驚く人々をよそに、彼自身が何故わからないのだろうと歯がゆい気持ちでいたのではないか、と書かれている。それは才能なのか一般人が鈍いのだろうか?
晴哉氏が若い頃、夫人にこんな言葉を語ったという。

「もしも、七つの大罪を挙げるとしたら、第一は無知ということだ」
(雷門Tより)


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【追記】
新しく記事かいた
某フナイさんじゃないけれど本物が大切だ。
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2015年07月12日

竹内敏晴語り下ろし自伝 レッスンする人

竹内敏晴という人物を知ったのは20世紀も終わりの1997年頃である。人から彼のワークショップがある、と誘われて参加したのがきっかけだ。
滑らかないい声ではない。それはむしろ労働者の声、酷使された声帯のようなしゃがれた声であやふやなところなど微塵もないベクトルをもって人に届くのだった。

この本は彼が病のため残り少ない時間になったときに、語られた半生である。あの声がどこから生まれてきたのか、それは若い頃にあった聴覚障害から始まっているようである。

そういう自己の出来事のほかに時代のことが語られている。1925年生まれの彼は青春を戦争とともに生きることになった。子供時代から戦争への暗い雰囲気を感じ取りながら、人がそういう社会にどのように関わっていくのか、その様子をつぶさにみた世代であった。
学生の盾とならない教授、生徒の属性により変化する成績表、戦争後の社会建て直しをすでに見据えていた官僚。インテリの根無しぶりもちょっと語っていたりして。

さて、私が参加したレッスンだが、
「ブラインドウォーク」というレッスンがあった。一人が盲目になり、もう一人が先導して、あちらこちらを歩くのである。目に見えない世界を、人はどう感じるか、先導する人は何を導くのか。
私が先導者になったときには、周りにある植物やモノなどに触れてもらったが、私を先導してくれた人はわたしに「人」に触れるような先導をしてくれた。この認識の違い!

終わってから、皆が集まり感想を述べる。ファンタジーのような幻想世界を語る人々の話を一通り聞き終わった竹内さんは
「目に見えてるときのものと、目が見えないで触れるものは同じなのだろうか?そこには同じものが同じように感じられるのだろうか?」
というようなことをおっしゃっていた。
目が見えるわたしたちは、目を閉じたときに見えていたものを頭に描いて行動している。そういう無意識の習慣について彼は疑問を発したのであった。それは失っていた聴覚を取り戻し「人間社会」へ参入するための「言葉」獲得に苦心した、彼の本質的な問いでもあったのだ。

(某セーゴーさんの記事みたいな感想になってしまいました)
レッスンする人―語り下ろし自伝
レッスンする人―語り下ろし自伝竹内 敏晴

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2015年06月21日

忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎 辰野隆

隆慶一郎や渡辺一夫の師として知られる辰野隆。このエッセイは人気があるらしく幾度か出版されているというらしい。
明治の文豪たちの思い出、級友のこと、そして友人谷崎潤一郎についての文章が集められており、これだけでもちょいと面白そうな感じではある。で、実際に読んでみると文豪たちの人間らしい愉快なエピソードが画かれていて、でもゴシップとは違う、そんな趣深い内容である。

何より流石に文学の先生だけあって、彼らの作品について述べている箇所を読んでいるとこれがまた読んでみたくなるような紹介や評論だったりする。例えばわたしは長谷川如是閑を読んだことがなくて、ジャーナリスト関係の人なのかな、ということくらいしか知らなかったのだが、辰野氏の文章では「…どの角度から眺めても思想家型ではなかったが、如是閑氏の根底には哲学者が潜んでいた。」という一文で、当時としては時流を抜いているようなヨーロッパ的な観念小説と紹介した『ふたすぢ道』などを読んでみたくなったりした。

また、交友関係にある二人の蔵書家への愛情溢れる(?)のかどうかわからないがその毒舌ぶりがおかしい『書狼書豚』。このお二方は辰野氏の書架をみて、俄然書物への執念が出てきたのであるが、彼らのその書物への偏愛振りを
つらつら往時を顧み、二昔以前に溯って、未だ両君が型のくずれぬ角帽を頂いていた秀才時代から、次第に書癖が高じて、やがて書痴となり書狂となり遂に書豚(ビブリオ・コッション)と成り果てた因果に想い到ると、僕にも多少の責任がなくはない。

と表現している箇所に彼らの熱狂振りがありありと伝わってきて、思わず微笑したくらいである。

谷崎潤一郎との交友は辰野氏が亡くなるまで続いたそうであるが、彼の文学に対する辰野氏の絶賛ぶりが二人の関係を物語っている。辰野隆にとって、谷崎潤一郎という存在は学生時代から燦然と輝く星であり、そして何より、その官能的な小説の、崇高な喜悦と官能の陶酔の分けがたい境地を高く評価していたのである。
忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎 (中公文庫)
忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎 (中公文庫)辰野 隆

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2015年05月29日

チベット旅行記(上)(下) 河口慧海

今年の正月すぎか?本屋でチベット旅行記の文庫本を見かけて、子供のころ読んだ小学生の百科辞典を思い出した。その中に偉人伝もあって慧海さんものっていたので、懐かしく思い、確か話も面白かった記憶もあったし、それで読んでみようと上下巻でそろったところで購入。
河口慧海は日本での勉強に飽き足らず、大乗仏教盛んなチベットへ渡ってみたいと思っていたのだが、当時欧米列強が植民地政策をとってた時代。チベットは英国を嫌い鎖国を実施していた。皆が危惧するなか彼は用意ととのえ出国する。

本書は出国からチベット入国、そして外国人であることが知れて密かに脱出して帰国するまでを語ったものだ。鎖国チベットに入るために間道を選び、何日も民家のないところをゆき、野宿は非常に過酷。さらにエゲレスのスパイに間違えられるとかいう危険があったりという波乱万丈の行程だけでなく、不思議な加護や彼自身の胆力に負うところの多い危難の避け方など、ほとんどRPGの勇者並み。明治の人間の底力をまた見たような気がする。
また、現地の様子や風俗、チベット国内の様子など一流の学者のような観察力も素晴らしい。
どこの国でもそうだけど、鎖国してるとだんだんと国が腐敗してくるような気がする。その様子は下巻に詳しい。民衆が苦労するわけだ。本人のイラストもまた上手で現地の様子がさらによくイメージできる。

ところで慧海が渡航したのは30代の頃。子供の頃みた百科辞典の話に戻るが、その本のイラストには高い山々とひげの伸びた僧侶が描かれていて、子供だから深くは考えなかったのだけど、お坊さんだからおじいさんと思っていた。そんなわけないよな、あんな過酷なところ。年老いたら無理だわ。浅はかすぎた自分。まあ子供だから仕方ないか。
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チベット旅行記(上) (講談社学術文庫)河口 慧海

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タグ:旅行記
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2014年12月24日

神田橋條治 医学部講義

前に『精神科講義』というのを読んだときにはなかなか痛快なお医者さんだなと思ったところで、今回医学部の学生に講義しているものがあるのを知って読んでみた。
これは毎年一回4年生を対象に九州大学で行われている講義の記録である。
医学生対象ということもあるだろう、前出の本で見せた痛快な論説は、ここで患者側からみると実にそうあって欲しいというものの見かたの説明になっていてこういう話を医学に携わる人は心の片隅にでも置いておいてくれるといいのだがな、と思うのである。

私がこの講義のなかでぜひとも医師にお願いしたいのは、徒手空拳ということである。
この話は2004年の「感覚の復権」という中で述べられているのだが、医者が感覚を磨いて検査する前にどこがいけないか見立てができるようになって欲しいという趣旨のこと。

この話読んで、全くその通りだと思ったのはある病院で私はこんなことがあったからなのだ。
ちょっと脚の具合が悪くなって、整形外科に行った。そこは入院施設もある、わりと大きな病院なのだが、受付が終わり待っていると看護師がやってきて話を聞いてくれる。まあここまでは普通だ。ところが、このあとなんとすぐレントゲンをとるという。私はえっ?と不審に思った。なんで?看護師に話しただけだよ?それなのにすぐ検査?
まあ、案の定検査のあとの医師のやる気なさというか(そんな風に見えてしまったのかもしれないが)別になんにも異常見つからないからといって湿布と痛み止めだけ出されて帰ってきた。湿布でよくなってるなら医者になんかこないと思って、頭にきたのでネットで別の病院を探して行った。
こんなでたらめなやり方でいいのかと思っていたので、この講義で「予測して的確な検査をすることができるように」というところを読んだときにはやっぱりそうだろう、と溜飲が下がったのである。
だって、家族に話しても、別に早く順番がまわるからいいじゃない、とかそんな程度のことしか考えていなかったし、これだから医学がだんだん工場みたいに流れ作業に堕していくんだと家族に対しても不満たらたら述べたんだよ。あ、そうそうこの流れ作業については先生も別の年に触れてます。今だと自動車工場ですら流れ作業じゃなくてチームで一台を責任もってつくるらしい。それに比べると医療の作業能率の遅れていること。

まあ他にもお医者さんならわかっていて欲しいと思うこと満載で、医療関係者におかれましては是非とも一度読んでください、お願いします、と一患者からの切望を書いて終わりにします。
神田橋條治 医学部講義
神田橋條治 医学部講義神田橋 條治 黒木 俊秀

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2014年09月27日

誰か故郷を想はざる 寺山修司

昨年、寺山修司の没後30年ということでとある記事を目にしたのだが、その中に彼が故郷を問われるとこう答えたという文章があった。
「四十七都道府県のうち唯一、色彩の入る青森県」それも「『罪と罰』のラスコーリニコフの振り上げた斧に似た下北半島の直下、老婆の割られ血まみれた頭蓋の部分=青森市」
(北海道新聞2013年6月10日付け、時評俳句欄)

寺山修司に関してはそれほど関心をもっていなくて、この時評に載っている俳句にもさほど興味を惹かれなかったのであるが、この故郷の紹介についてはひどく印象にのこった。

そんな中、自叙伝らしくない自叙伝と紹介されてるこの本を目にしたので、興味半分で読み始めたところ、意外にも幼少期の思い出の中に先ほどと同じような故郷の紹介文を目にする。著者が数学にある種の比喩を見出した頃の話だが、自分の家の番地が459番地であることについてこう述べているのである。
“ああ、地獄番地。四五九は死後苦とも読めた。死のあとも苦しむ番地、どっちにしてもそれは片影の迷路だった。ぼくは自分の持ち物に、大工町地獄番地寺山修司と画くことに戦慄を感じ始めた。…(p40)”


彼のこうした感性はどこからくるものであろうか?同じように貧困や各種の障害を持ちつつも近代の社会性をうまく取り入れて富豪や教授になるものがいる一方で、反社会性にまで行き着きそうな暗黒を表現するために生きてくる人間と、なんだか不思議な気がする。実際、わたし自身はやっぱり著者の競馬やボクシングの世界にはあまりなじめず、賭博気質からも程遠いし、それゆえ、彼の表現があまりよくわからないことが多い。それでも、少し著者の心情も共感できるかな、という部分がある。
だが、あらゆる想像力はイヌではあり得ない。現実の飢餓の報復を想像力にはたしてもらおうという考え方は、想像力と現実との不幸な雑居生活化であり、実人生の恨みつらみを他ではらしてしまうことである。(p68)


私は精神分析用語でいう昇華ということを、どんなに高尚であろうと欺瞞は欺瞞であると考えているので、この点については、まったくうまい表現だと思ったのであった。
誰か故郷を想はざる―自叙伝らしくなく (角川文庫 緑 315-4)
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2014年03月14日

治療文化論 中井久夫

今日では治療といえばまず病院であり、精神疾患もそうであるという印象を私はもつ。
ところが一方で精神疾患とはどこにラインがあるのか、という疑問も持ち続けてきた。
個人的には日常生活に差し支えないのは病気ではないという認識があるけれども、そうなると自殺や犯罪も精神疾患の一部になるよなあ、でも、通常それらは病気ではなく、個人の道徳性などに原因が帰せられてしまうことが多い。

いや、こんな話を著者はしているのではないのだが、個人がある種の精神的危機を迎えたときに、身近な人が治療者の役割を果たして完結するような個人的なもの、社会の民間治療者を頼る文化依存的なもの、そして西洋で発展した精神医学に代表される普遍的とカテゴライズされるものがあるのではないか、というような意味の文章を読んで、病気とは何をもってして病気というのか、それは肉体なのか社会なのか精神なのか、今まで医学は分類と診断で区別をつけて対応してきたけれども、一つの方法論ではどうにも欠損が出来てしまう。迷信かもしれないものが、実は治療に役立つ、そういう実例を著者は挙げている。

いろいろ書きたいような気もするんだが、安易に書けないような気もしてうまくいえない。ただ、著者はコンゴ動乱における白人傭兵のことに思いをはせ、精神科医もそれに似たようなところがある。周りから人非人、非道とののしられようとも、彼らの状況即興能力に賭けて収まらない物事を収めるという技術。について述べており、この世界が安易なヒューマニズムでは収まらないけれどももっともヒューマニズムを重視しなくてはならないということに私は慄然とする。
精神医学の批判も大切なことだ。患者の尊厳を損なうような治療が散見されるし、著者も民間の治療師たちが患者の尊厳性を損なわないことについて現代精神医学と比較している部分もある。
つまるところ、どの職業においてもそうであろうが、人間の深い部分に関わってくる職業は周りの非難にどれだけ堪えうるか、なおかつ患者の尊厳をどれだけ大切にできるか、という命題に行き着く。
もうかなり前に書かれた本だけど、そういう部分の命題は永遠のものだという感じがする。
治療文化論―精神医学的再構築の試み (岩波現代文庫)
治療文化論―精神医学的再構築の試み (岩波現代文庫)中井 久夫

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治療文化論―精神医学的再構築の試み (同時代ライブラリー)
治療文化論―精神医学的再構築の試み (同時代ライブラリー)中井 久夫

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タグ:精神医学
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2014年03月02日

創作の極意と掟 筒井康隆

筒井さんが本について書いているのを読むのは本当に至福のときだ。
もちろん、小説はいうまでもなくそうなんですけど、本についての評論やエッセイは「こんな読み方があるんだ」といつも驚きの連続なのであります。

で、今回の「創作の極意と掟」もそう。
小説を書くにあたってのいろんな作法や方法論を述べているという体裁ではあるが、そこに出てくるサンプルとしての小説の数々が読みたくなるような紹介で、全く興味がないというか書いてる内容を知らない作家の作品とか、ああ、こんな作品があるんだ、じゃあ一度読みたいな、と思うようなものが続出なの。
だからこれは創作を目指す人だけでなく、小説をどう楽しむかという点からも面白くて流石だと思う。

特に私がお気に入りの一章は「妄想」
空想でも理想でも着想でもない「妄想」
もしかしたらこれは筒井さんの小説を読み続けているがためにそういう考え方をもつに至ったのかもしれないけれども、私はつねづね小説というものは妄想に奉仕するために生まれてきたのだと思っている。
この章でも妄想と小説の大切な関係が書かれているけれども、そもそも妄想とは人間が動物であるのに動物でないという不自然な意識状態を維持するのに支払わなければならない税金のようなものであり、それゆえに古今東西これほどまでにたくさんの人が物語を描き小説を書いてきたのだと思っている。実験的前衛的手法ですらそれは妄想の変形であり、創作とはそういうことなのではないかと、かように思うわけなのです。
創作の極意と掟
創作の極意と掟筒井 康隆

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タグ:エッセイ
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2014年02月27日

禅と日本文化 鈴木大拙

本論は英文で行われた講演を訳したので、日本向けではなくて外国人向けなのであるが21世紀の日本人としては、改めて日本文化と禅の関係の面白さに惹かれる本である。
若干割愛したところもあるらしいけれど、それにしても、剣の話から芸術論まで、禅の影響がこれほどまでに武家社会日本にあったとはな、という感じ。

「禅と武士」「禅と剣道」においては、まるでどこぞの剣豪小説の解説を読んでるかごとき面白さ。
日々命のやりとりをする武士たちと、直裁的な悟りを重視する禅は余計な思弁を排し、一切が体験そのものを重視するという解釈は、ああ神秘の国日本、鈴木大拙の諸外国に対する影響は素晴らしいものがあったのだろうなと想像する。

また、「禅と俳句」において、宇宙的無意識なるものも飛び出し、そこで得た知覚が言葉をつくしてもつくしきれないゆえに、極端までに少ない言葉へと昇華していったという解釈。これは従来の道徳的な解釈のつまらなさを一刀両断する胸のすくような話だ。
いや、もちろん大拙先生のいってることすべてが正しいとは思わないけれど、文化の解釈なんてものはいかに興味をもって聞いてもらえるかが勝負どころであって、そういう意味で大拙先生はほんと素晴らしいと思う。
私が外国人だったら、まぎれもなく禅に興味をもったね。
そのくらい面白い。

それにしても、「禅と茶道」のくだりで、キリスト教でワインを使うところで酒びたりになる聖職者の話とかして大丈夫だったんだろうか?そのあたりちょっと知りたい気もする。
禅と日本文化 (岩波新書)
禅と日本文化 (岩波新書)鈴木 大拙 北川 桃雄

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タグ:文化
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2014年02月13日

百鬼園随筆 内田百

百關謳カの随筆はどこか独自の観点があって面白く読める。
私がちょいと気に入ったのは、「地獄の門」という作品の中に出てくる一節。
ここでは高利貸しに借金する「私」が放蕩で借金するのかと聞かれて、ある友人の言葉を思い出したところだ。
実際、世渡りがうまいという事は一つの天びんである。僕なんか到底実生活で成功することは出来ない、努力すれば、却って反対の結果になる。実生活ばかりではない。うまいという事は信仰の上にもある。僕達よりも遅く信仰生活に入って、それで、うまく神に接し、神をとらえている者がいくらもある。僕は、神を信じる事すらも、へまだ。

これね、とても身にしみる。実際、「私」も放蕩だって、うまく遊べるかどうかわからないと思っているのだし、実はなんでもうまくやるということには才能があって、もしかすると失敗ばかりすることも一つの才能ゆえではないかと思うくらいだ。
才能がないということも才能かもしれないし、おっと、そんなこと書くと詭弁くさくなってしまうが、要は人間自分自身にしかなることができないということだ。
だから、今、世間的にうまくゆかなくても嘆かないことにしようと思う。
百關謳カも、私的にはあんだけ借金して大変だと思うけど、先生自体はそんなことは当たり前のことだったのに違いないのだし。
なんかなに書いてるかわからなくなってきた。
百鬼園随筆 (新潮文庫)
百鬼園随筆 (新潮文庫)内田 百けん

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タグ:百關謳カ
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2013年12月11日

日本人とは何か 加藤周一

主に1950年代に書かれた評論文で構成された日本人論。
芸術の視点から見た日本人のこと、天皇制、文明論、日本の知識人についてなどの評論が8篇収められている。
芸術の話や天皇制のことなどは特に思うところもない市井のぼんやりした人間なので、そのまま何も考えずに読んでいたが、知識人について、特に戦争との関係についてはなかなか興味深いなと思った。

『戦争と知識人』においては知識人が戦争をどう捉えてどう行動したのかということが書かれている。ある知識人は戦争が終わったあとで「だまされていた」というが、著者によればそんなことはないという。言論統制のさなかで知識人はその背後にあるものを読み取っていれば、この事態がどう動くのかということはわかる、というのである。そして、そういった心情的な嫌悪感は持ちつつも時勢の中でとくに抵抗することもない知識人の例として高見順の日記を参考に論を重ねてゆく。
こうしたいわば「曖昧な」知識人は多かったというのであるが、それはなぜか。
著者は彼らのもつ価値や原理が日本というものを超越していかなったからだと見る。高見順の例でいけば、政府のやることを批判しながらも、天皇と殉じるという気持ちの矛盾があるということだ。一方でこの体制を忌避する例えば永井荷風のような人物は「日本」を超越する価値観を持っていたという。だがそれは外国に投影されているものであり、それが日本の知識人の不幸であった。

このような知識人のあり方は現在どうなっているのだろうか?果たして日本の現在の知識人は「日本」を超越する価値観を有しているのかどうか?
著者はこの評論の終わりに「神ながらの道」について、という見出しで日本の精神的思想的なありかたに少し触れているが、結論として外来思想が日本の神ながらの道が超越的な価値や真理の概念があったかといえば否であり、外来思想が超越的なものをもたらしたかといえば否と答え、多くの知識人たちがこの道に続いていた、とした。この見方は実感としてはあるなあと自分では思う。あくまで個人の感想だが。
日本人とは何か (講談社学術文庫 (51))
日本人とは何か (講談社学術文庫 (51))加藤 周一

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タグ:批評
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2013年12月01日

狂気について他二十二篇 渡辺一夫

特定秘密保護法案の衆院可決できな臭さが一段と増した国内だが、ちょうど私はユマニズム思想を持ち続けた渡辺一夫の評論選である、この『狂気について』をゆっくり読んでいるところであった。
本書はラブレー研究においてのエッセイ、ユマニズムに関わった人々のこと、著者自身の考え、そして身辺エッセイ、特に本についてのもの、などが収められている。

ユマニズムについての考えは、一見随分生ぬるく見えて、勇ましい人々から槍玉に挙げられるのだけども、著者はそうした勇ましい人々が思想や機械に「使われていないか」、あるいは自分自身の考えがなくなって「機械化」してはいないか、ということを再三に渡って警告している。
力を行使して、いわゆる「悪」を駆逐していく方法は短期でみれば効果があって、しかも爽快、だから徹底的な寛容を説くユマニズムの思想は「甘い」と思われる。
しかし、著者は言うのだ。不寛容の代償は大きいと。
とはいえ、「人間が機械になることは避けられないものであろうか」の中で、著者は自らを恥ずべき消極的傍観者で敵の弾で親友が殺されても反戦論を唱えるのかという問いにただ、困るなと言うだけであったという。
近頃なら、やっぱり「俺は戦う」というのが人々の心を打つのであり、私もやっぱり戦うと言ってしまうなと思う。
そして、そのあと、著者の言葉にはっと胸を突かれたのは
“親しい先輩や友人たちが刻々と野蛮に(機械的に)なってゆく姿を正視することはできなかった”というものだった。
人々が緊急事態のなかで理性を失い、群集心理に巻き込まれてゆくこと。これを何より著者は恐れたのである。そういえば、『渡辺一夫敗戦日記』においても、尊敬する先生方が戦争に鼓舞されて発言するところを苦々しく書き記した部分があった。
このような態度は確かに「強く」はないし、直接の問題解決にどのくらい役に立つのか見えにくいこともあろう。だけれども、皆が煽られて駆り立てられてレミングの行進よろしく同じものへ向かって爆走してゆくとき、冷静で寛容な精神が実は必要であるということ。各人はこれを自らのうちに養わないといけないのではないか、と思うのである。
狂気について―渡辺一夫評論選 (岩波文庫)
狂気について―渡辺一夫評論選 (岩波文庫)渡辺 一夫 大江 健三郎

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2013年11月26日

カウンセリングと人間性 河合隼雄

本書はカウンセリングの技術というよりはカウンセラーとして考えておいたほうがいいという事柄を集めたもののように私には見える。カウンセリングにおいて嘘と真実はどう扱うのか、偏見については?、責任感のことなどの話から、ロジャーズ理論やユング派の視点からみる自殺についての象徴的意味についてまで、話題が多彩である。

参考になる部分はたくさんあったけれども、私が一番興味を惹かれたのは「適応とは何か」という講演記録の項であった。
適応というと、つい環境に対することを考えてまあ社会生活がそれなりにうまく送ることができていれば適応していると考え勝ちであるのだが、人間を考えた場合に、その存在は常に可能性に向けて開かれ変化しようという衝動があり、現在の生活と、人間の内部に起こる可能性への衝動にズレが出てくると不適応という形になる。
これに折り合いをつけてゆくことが結局適応ということになるだろう。可能性に近づいて高い次元での適応を為すのも大事なのだが、無限の可能性に惑わされず、身の丈にあった生活に落ち着くこともまた大切である。
とまあ、こんな感じで捉えたのだが、最後の節に「死んでゆく私」というタイトルがついている所、ここにある文章が心に残った。
…肉体的にだんだんと衰える、下り坂を下ることのなかに、人間としての成長を見出すという逆説を生きることを考えなくては本当の意味での老人の適応ということはありえないと思います…(p183)

私はまだ老人という年じゃないのだけど、よる年波でいろんなところに体の不調を感じ始めている年代で、このことを痛切に感じるのである。老化を遅らせてなるべく元気でいることも大切だけど、いずれ死ぬ身、その考えだけに凝り固まると問題の先送りにしかならんのではないか、と常日頃思うようになっていたのでね。
カウンセリングと人間性
カウンセリングと人間性河合 隼雄

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タグ:心理
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2013年08月03日

救急精神病棟 野村進

昔学生の頃、大熊一夫の精神病院ルポ本を読んだことがある。そこで大熊さんはアルコール依存症を装って来院したところ、すぐに入院となって、そして内部の様子が語られた。今手元にその本はないので、細かなところまでは覚えていないが、正常な人間が酔っ払っただけでアル中と判断された杜撰さが結構衝撃的だったのを覚えている。これではどんな人間でも周りが迷惑すれば入院させることができるのでは、とちょっと恐怖に駆られたものだ。

ところで、この『救急精神病棟』では千葉県精神科医療センターの「精神科救急」という部門について取材されたもの。ここでは急に重篤な状態に陥った患者を診るために二十四時間体制で動いている。そして軽度の症状やいわゆる人格障害と判断された場合はその場で入院させず、外来で対応している点に時代の移り変わりを感じた。
とはいえ、この救急センターは後続する病院がほとんどない、という点で、当時の院長計見先生は「失敗だった」と述べる。重篤な症状は一刻でも早く治療を行い、慢性状態に移行させないようにするのが救急センター設置のねらいだったのだが、なにしろ人員や体制施設の充実が現状ではなかなか難しいようなのである。

それでもこのルポが行われた2000年前後の3年間で転換期が来ているといわれていた。現在はどうなのであろうか?精神病は治療以上にケアが大切だという話を聞いたことがある。徐々に地域社会に暮らしながらの治療が一般的になってきているとはいえ、まだまだ長期の収容患者も多いのだろうか。

ルポの中身については是非読んでいただきたい。「ビジネスマンの精神病棟」を書いた浅野誠医師も登場して、この精神科救急の底に流れる理念の一端を垣間見ることができる。
救急精神病棟 (講談社文庫)
救急精神病棟 (講談社文庫)野村 進

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タグ:精神医学
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2013年07月19日

原初生命体としての人間

「生きている人間のからだ、それは皮膚という生きた袋の中に、液体的なものがいっぱい入っていて、その中に骨も内臓も浮かんでいるのだ」
という言葉は、野口体操を知るものであれば一度は聞いたことがある言葉であろう。
今更改めて素人の私が書くまでもないけれども、上記の言葉のとおり、野口体操は、従来の体操の概念と大きくかけ離れた考え方から出発している。そして本書はその考え方を述べた著者の初めての本なのである。
コアセルベートという生き物だかそうでないのだかわからないようなもの、人間のからだも究極はそれと同じイメージで感じ動くという発想は、腑分けされ、徹底的に分析された現代科学のからだの考え方とはまるっきり反対のベクトルである。

面白いな、と思ったのはたとえば計測される身体において、特定の能力が高ければそれに関する運動能力が高い、という考えが現代科学で研究されたからだ観にはあるけれども、現実をみると必ずしもそうなっていないことが、野口体操の理論でいくと、なるほど、と納得してしまうようなことである。
人間は機械になぞらえることはできるかもしれない。現にそうしてたくさんの命が救われてきた面は否定できないから。
だが、何事もゆきすぎてそれだけ絶対視されると、弊害が大きくなってくるのではないだろうか。
1970年代に書かれたこの本は当時どのように受け止められたのか、よくわからないが、現代において、野口体操のからだの考え方は重要になってきていると思われる。
もちろん、これも絶対視してしまうと弊害が生まれるが、現代科学が不得意な面を補うものとして、これからしばらくは古びることなく読まれていくのではないかと思った。

ところで、この本には実際の動きについての解説の章があるので、できないながらもそれを実際試してみながらの読書であったので、それほど分量があるわけでもないのに、えらく読了まで時間がかかりました。
実際の動きを画像入りで載せてるジュニア新書があるので、もし初心者で興味のある方はそちらを最初によむといいかも。
原初生命体としての人間 ― 野口体操の理論
原初生命体としての人間 ― 野口体操の理論野口 三千三

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タグ:人間
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