2017年02月07日

過去記事から―エリ・ヴィーゼル著 「夜」

人間の理性も自然の本能の一部なんじゃないかなあ、と思う今日この頃。
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2011.3.12の再掲載です

ちょうどこの本を読んでいる最中に東北地方太平洋沖地震が発生した。
その凄まじい津波は対策を立てていた想定以上のものではなかったか。
名取川から畑へと侵入してくる大水は自然の非情さをまざまざと見せ付けたのである。

『夜』はナチスドイツによって強制収容所に送られた少年が後日大人になってからその体験をノンフィクション小説にしたものである。
彼の体験は自身の中での神の死という結末に至った。
この悲惨な体験は純粋に人間のもたらしたものであるけれども、人間といえども自然の一部である。その非情さは時に襲い掛かるものに想像以上の猛威を振るうことがあっても実はおかしくないのかもしれないと、そんなことを考えた。

もちろん、人間は自然に対抗すべく社会を形成してきた生物である。
であるからその猛威を自ら調教して緩和しなくてはならないことが期待されるし、それはうまくいっているようにも見える。
だが、やはり自然の一部である人間が理性を逸脱してその残虐な面をむき出しにすることがあるというのを忘れてはいけないのだろう。丁度自然災害の猛威を忘れてはいけないように。

冒頭、先に強制収容所に送られてた外国のユダヤ人が戻ってきて住民に警告する。だが、住民たちはそれが人間として考えられないことなので信じない。これを住民が楽天的すぎるとか考えてしまうのであるが、いや、でもどうなのだろう。自分もやっぱり信じられないと思ってしまうかもしれない。

ナチスを断罪することはたやすいけれども、断罪したからといって将来絶対にこのようなことが起こらないという保証は残念ながら私には考えられない。
ただ、いえるのは一人ひとりが理性を失ってしまわないよう注意深くなること。
しかし、それでも自然の猛威は時に人間の心の中で振るってしまうことがあるだろう。
だがやれるだけのことはやるしかないのである。
ユングが言っていたのはおそらくそういうこと。
夜 [新版]
夜 [新版]エリ・ヴィーゼル 村上 光彦

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タグ:ナチス
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2015年10月02日

法の書 アレイスター・クロウリー

帯がすごい文言

“いま禁断の書の封印が開かれる!!クロウリーが明かす悪魔の福音書”

ということで袋とじになっている。なってない部分は彼の前半生についての解説。それによると資産家ながらかなりのファンダメンタリズムなキリスト教派だった父親とその環境の中で誤解を受けたことがきっかけで、のちにいろんなことを言われる“魔術師”への道をゆくことになった経緯がつづられている。その解説を書いた人は生涯人間と冗談を愛した男、と彼を評したが、トートタロット作成のもととなる「トートの書」とかこの本とか読むと、ほんと、この人、本気か冗談かわからないよな、と思うことしばしば。

とはいえ、あれだけ世間の注目を浴びるからには、本気モードは入ってないとできないことではあるし、彼自身テレマ教?の教祖としては
「汝の意志するところを行え。これこそ<法>のすべてとならん。」
ということだし、冗談を本気で行った、というところなのだろう。
これは、ファンダメンタリズムなキリスト教を信奉する深刻なまでの真面目さとは対照的な態度である。

さて、肝心の「法の書」であるが。
…すいません、理解できませんでした。
エジプトの神々の名称もよく知らない、ということもあるが、知っていてもほかにオカルトのいろんな知識が入ってくるので、頭で理解するのは難しい。感覚とか直感とかそういうものが、この文章と響く人は理解しなくてもわかるのだろうな、という感じ。
でも、自然の非情さ、ということをこうした啓示として文章にあらわされてるな、と思ってちょっと感激した部分はあった。3章16節
約束通りのことを手中に収められるものと、あまり熱っぽく期待するでない。呪いを受けることを恐れるでない。汝らは、汝らでさえも、ここに記されたことの意味をすべて承知しているわけではないのだ。

以下、激烈な言葉が続くわけだが、そうしたものを読むと人生はまさに闘いとか思ってしまうよな。

関係ないけど、心理テストがあって、その中で答え合わせで自分の人生をあらわしてるという部分があった。そこの答えには思いついた歌のタイトルを書くことになっていたのだが、わたしはそこに「江差追分」と書いたわけだった。あの唄はなかなかに哀しいものがあるよなあ。といっても、自分遠くの土地で頑張ってるわけではないんだけど、生まれてくる、ということがそういったことなのかもしれず。
蝦夷地に骨を埋めた人びとの哀しみの想いを唄にたくして
江差追分の心をもとめて―ウェブマガジンカムイミンタラ


法の書
法の書アレイスター・クロウリー 島 弘之

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2015年09月23日

紋切型辞典 G.フローベール

原題の直訳は「世間で容認されたさまざまな考えの辞典」ということで、未完ではあるがのちにまとめられて出版されたという。タイトルから当時の世間的な俗物思考を笑うための本かな?と想像して読み始めた。
が、
わずか3番目の「アカデミー・フランセーズ」にて、もうにやりとしてしまう。知的俗物を嗤う内容になっているからだ。「悪魔の辞典」のような攻撃性は感じられない。しかし、何とも言えない皮肉か褒め殺しのようにしか読めない自分はもしかしたら、一番フローベールの罠にはまって笑われる俗物人間なのかもしれない。

ところで、自分はなぜかこの項目にツボ刺激され、大笑いした。
呪いの言葉…つねに父親が〔放蕩息子に〕投げつけるもの

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紋切型辞典 (平凡社ライブラリー (268))G.フローベール 山田 ジャク

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2015年09月20日

投資話とカーゴカルト

とりとめのない話が続く。

投資の話というのはどういう形態で伝わるものなのだろうか?

私が聞きに行った投資の話は、ネットワークビジネスの手法を使っている。調べてはいないが後からぼんやり考えているうちに、なんだかグローバル化の縮小図のように思えてきた。
ネットワークビジネスといえば口コミでみんなで得しようみたいな感じで勧誘する、というイメージがある。そして紹介したらいくばくかの手数料が入る仕組みになってるが、これは最初のほうで始めた人ほど後から入ってきた人からの手数料が入ってくる仕組みになっている。
早く申し込めばそれだけ利益が出てくるから、その組織に組み込もうという意欲が大きくなり、組織が大きくなる。

このイメージだけの仕組みで考えてるから実際は違うかもしれないが、連想したのが、この間読んだエリアーデの著作集に出ていた、カーゴカルト(貨物船信仰)のこと。
欧米各国が太平洋の小さな島々に上陸して、そこに住む人々に、自分たちの文明文化を伝え同化させていった。先住民たちは、やってきた人々の物質的豊かさに触れ、それは彼らの祖先たちが贈り物をもって帰還したという信仰に変わるのだが、現実にはやってきた白人たちが当地で我が物顔にふるまい、キリスト教に改宗させようとした。先住民たちはそこでアンビバレンツな感情を持ち始め、地域によっては大いなる破壊の後で「楽園」がやってくる、というカーゴカルトに発展した。

聞いてきた投資話がどうなのかここでは書かない。ただ、投資とネットワークビジネスといえば、過去に資金が回収できなくなって世間で騒がれ訴訟にまで発展した投資のことを思い出し、それでカーゴカルトを連想したまでだ。白人側としては自分たちの基準で物事を勧めようとした「だけ」だが、先住民たちはそれが自分たちの尊厳を冒すことに気が付き、紛争や騒動に発展する。カーゴカルトは宗教的感情を背景にしているが、どんなものも、最初は情動に訴え物事を動かし始める。

物質の力は大きくて、快楽を伴う。きれいなもの、おいしいもの、便利なもの、こうしたものに触れてしまったら人は抗いがたい力に引き寄せられてしまう。しかもエリアーデも著作に書いてるように、先住民たちはそれらの物質ができるまでの工程を見ておらず、製品だけを見せられるためにその魅力は倍増するだろうということは想像に難くない。

今、わたしは揺れている。
手を出すつもりはないが、今まで「悪」だと思っていたこと、それは本当に悪なのか?
筒井さんは昔俗物図鑑でそんなことを誰かに言わせていた。
私の中の「悪認定」された出来事はどうなのだろう?
「モナドの領域」を読んで、またそれが浮上している。

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2015年09月05日

悪魔と両性具有(エリアーデ著作集第6巻)

宗教史学における神秘体験、象徴についての論文のまとめ。
光の神秘体験、悪魔(神の影としての)あるいは対立するものの一致としての両性具有、終末論など。
数々の文献を紐解きながら、その共通性をとらえ考察している。

(すいません、モナドの領域に間に合わすためほとんどななめ読みになってしまいました。)

エリアーデ著作集 第6巻 悪魔と両性具有
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タグ:象徴
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2015年06月12日

贋金つくり(上)(下) アンドレ・ジイド

アンドレ・ジイドの『贋金つくり』という小説は登場人物エドゥワールの『贋金つくり』という小説の構想集のような構造になっている。エドゥワールは自分のまわりの人物をモデルに新しい形の小説を生み出そうとしているのだ。それはまるで思考のダンスのようである。
さて、わたしがお気に入りのダンスをいくつか紹介しよう。
ここでは名を秘して文章を掲げる。
愛する者は、愛している限り、また愛されたいと願っている限り、自分のありのままの姿を示すことができない。のみならず、相手の姿も見ることができず、その代わり、自分が飾り立て、神として祭り上げ、創作した偶像を見ているに過ぎない。

若いころ、わしはきわめて厳格な生活をした。何か誘惑を斥けるたびに、自分の性格の強さを祝福したものだ。自分を解放するつもりで、実はいよいよ慢心の奴隷となりつつあることが、わからなかった。己に打ち勝つ勝利の一つは己の牢獄の扉にかける鍵の一まわしだったのだ。

僕の場合は、自分が何を言おうが、何をしようが、僕の一部が後ろに控えていて、片方の自分が危ないことをするのを眺めていて、それを観察し、ばかにし、野次り、あるいは喝采するんだ。こんな風に自分が分裂していたら、まじめになれるわけがないじゃないか。僕にはもうまじめという言葉が何を意味するかさえわからなくなるんだ。これはどうしようもない。悲しい時には、そんな自分が滑稽に見えて笑い出すし、はしゃいでいる時には、愚劣きわまる冗談を言って、その愚劣さに泣きたくなるんだ。


老化現象のせいか、最近まともな感想がかけず、引用厨になってます。
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贋金つくり (上) (岩波文庫)アンドレ・ジイド 川口 篤

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贋金つくり (下) (岩波文庫)
贋金つくり (下) (岩波文庫)アンドレ・ジイド 川口 篤

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2015年02月09日

生きがい喪失の悩み V.E.フランクル

以前、私は 意味による癒し ロゴセラピー入門の感想を書いたことがある。その中で「逆説志向」についてかなり気に入って、ロゴセラピーって面白そう、と思っていたのだ。しかし、リサーチ不足のせいもあってロゴセラピーについての本を見つけることができないまま、長い年月が経過してしまった。
今回、フランクルの講演をまとめたロゴセラピーの本が文庫で手に入るようになったというので購入したのが、この本である。

序論と「精神療法を再び人間的なものとするために」というタイトルの講演、及び付録の3篇が掲載されている。
フランクルは、有名な精神分析をはじめとする人間の「深層心理」を軸にした精神療法の回復率は高くないということを指摘し、それは人間的な意志の力といった人間が人間であるところの理性、もっといえば「高層の」心理学が必要なのではないかと説く。それはどういうことかというと、生きることの意味が見出せなくなっている現代人への、うーんうまくいえないが良心とか信仰とかそういったものに近い信念、といったらよいだろうか。フランクルはそれを「意味への意思」という言葉を使っている。

さて、お気に入りの逆説志向のおはなしはロゴセラピーとの他の技法と合わせて紹介されている。それは割愛して、他の技法の一例として「反省除去」。過度に気にして反省することをやめさせる技法で、ひとつの例として、まあフロイトの時代みたいな話だけど、女性でなかなか自分の性的な能力とか官能についてうまくいかないと悩んでいる人がいるわけです。そこでフランクルは、今時間がないので2ヵ月後にまた来ていただきますが、その間自分の悩みはさておいて相手に注意を向けてみてください、というようなことを言って帰したところ、2ヶ月どころか二日後に癒されたといってきたそうなのですね。

フランクルの技法は心理学的にいろいろ説明できるだろうけど、それよりも、この技法の底に流れている人間として生きるとはどういうことなのか、人は単なる動物ではない、というまさにヒューマニティックな考えが息づいているところに感動を覚える。
生きがい喪失の悩み (講談社学術文庫)
生きがい喪失の悩み (講談社学術文庫)ヴィクトール.E・フランクル 中村 友太郎

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タグ:精神医学
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2014年12月02日

ラスネール回想録

盗人にも三分の理
【読み】ぬすびとにもさんぶのり
【意味】盗人にも三分の理とは、悪事を働いた者にも、それなりの理由はあるものだということ。また、どんなに筋の通らないことでも、その気になれば理屈はつけられるものだということ。

故事ことわざ辞典

ピエール=フランソワ・ラスネール。19世紀ブルジョワに生まれながら犯罪に身を落とし処刑された人物。この教養高い紳士然とした青年の身分と行いの不一致が当時の人々に関心をいだかせ、処刑後、彼が獄中で書いた自身の回想録はかなり売れたという。
その回想録が本邦初翻訳ということで出版された。

犯罪者の回想録で自分の行為の正当化がこれでもかと描かれると私などはつい冒頭のことわざを思い浮かべてしまいがちなのだが、ラスネールの鋭さはこれを逆手にとり、そうした悪事に自分を追いやったのは一体誰なのかという問いを投げかけている。ラスネールの不幸というのは彼の回想録を読んでいる限りでは人に恵まれなかったということにつきるであろう。
特に共和主義者から詩作や記事の仕事を請け負ったときのことを読むと、そのあまりにも酷い待遇はどんな温厚な人間でも人間不信政治不信になってしまうのではないかと思われる。

ラスネールの言葉は屁理屈に聞こえるかもしれないが、これは格差社会における弱者の恨みを代弁しているようにも思える部分がある。
片方には、享楽の中でのらくらと生き、憐れみには心を閉ざす裕福な人間たちの社会が見えた、他方には贅沢で満ち溢れている人々に、生きるために必要なものを請う人間たちの社会が見えた。私はこの後者の社会と一体化し、この社会の味方となり、この社会そのものとなった。私はこの社会の仇を討ち、富をその黄金の冠から鉄のはらわたに至るまで震え上がらせようと思った。彼ら自身のためにも、いつかは裕福な人々が不幸せな人々の苦しみに敏感になるようにしてやろうと考えた。私は自分を犠牲にしたのだ―(p145~146)

果たして人が悪の世界に身を落としてしまうのは、その人自身の至らなさだけのためなのか、彼の成功したとはいい難い犯罪記録を見ている限りでは、上記のような大義名分以上に、社会に見出されなかった彼は結局やむおえず人間を襲うようになってしまった野生動物、そんな匂いをどことなく感じてしまうのである。
ラスネール回想録 (平凡社ライブラリー)
ラスネール回想録 (平凡社ライブラリー)ピエール=フランソワ ラスネール Pierre‐Fran〓ois Lacenaire

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タグ:自叙伝
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2014年10月28日

心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 ロバート・ウィタカー

サイモン・シンの「代替医療解剖」という本には「科学的根拠にもとづく医療」という言葉がでてくる。これは現時点におけるもっとも優れた科学的根拠を、細心の注意を払いつつ、明示的に、分別をもって利用する」ということで、この考え方が導入されていらい、臨床試験に基づいて行われる治療に進展が見られた。今では臨床試験は新しい治療を見つけるための欠かせない方法であるということで、医療の専門家の意見は一致しているのだという。
だから私たちは概ね今の医学に信頼をおいてるともいえるのであるが。

さて、この科学的根拠という考え方を悪用しているとしか思えない治療を行っているのが現在の精神医療の主流だとしたらどうだろう?この、「心の病の「流行」と精神科治療薬の真実」という本はそんなことを思わせるに充分な現状を伝えてくれる。

現在、精神疾患の大部分は脳の病気の一つだとされ、化学的な治療を施しましょうということで抗精神薬の処方がなされている。抗精神薬が登場して約半世紀。この画期的な治療は精神疾患の減少に役立っているはずだったのだが、著者が調べてみると、事実はむしろ悪化しているのだというのである。
著者は文献を注意深く調べ、当事者にあい、その実態をレポートしていくのであるが、そこに浮かび上がったのは、正統な医学として認められたい精神医学会の思惑と、製薬会社のたくみなマーケティングにより、実は脳の病気であるという科学的根拠は何一つはっきりと示されないまま、投薬治療が続けられてきたという実態が浮かび上がってきた。

くわしいことは本書でじっくり読んでいただくことにして、結局科学科学とはいうものの、医者も人間であり、社会的偏見や信念から脱け出すことがいかに大変かということを教えてくれる。まあ、主流医学批判をするとすぐ叩かれるのだけど、「代替医療解剖」にも出てきた瀉血がその効果がないのにも関わらず続けられてきたという歴史を考えると、一概に彼らがおかしいとも言いがたい。むしろ偏見によって被害にあう当事者のやりきれなさは察してあまりある。

これを読んでちょっと思い出したんだけど、私が喘息になって、とある長期型気管支拡張剤を使って筋肉が攣ったことがあった。最初はわからなかったが、民間の人のサイトでその薬を使って筋肉の攣りが出たというメールがたくさん来ているので、製薬会社に問い合わせたが、そんな副作用はないと一蹴されてしまった、というのを目にして、もしかしたら関係あるのかもと、医者に同じ事を聞いてみたら、そんなことはないとあっさり否定されてしまった。
結局、医者も患者のいうことよりは製薬会社の提示する資料のほうを優先するのであり、まあそれは科学的根拠で、患者の主観は科学的ではないのは承知なんだが、もうちょっと話を聞いてくれてもいいんじゃない?とがっかりしたなあ。
ましてや、精神疾患。言葉は悪いがレッテルを貼られてしまうとその言動はすぐ病気のせいにされてしまいがちだ。いやあ、どうしたらいいのかね。やっぱり当事者が声を上げていかないとこういう問題は改善していかないのだろうな。
もっとも、日本でも多剤処方を制限するという動きにはなってきているという話だそうで、今後どう動くか注目だが。

まあ、科学的根拠のあいまいさをたてに専門家と称する人々が利害尊重としか思えないような都合のいい発言をして人々を翻弄する点は放射能問題と似てなくもない。
心の病の「流行」と精神科治療薬の真実
心の病の「流行」と精神科治療薬の真実ロバート・ウィタカー 小野 善郎

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2014年10月26日

物質的恍惚 ル・クレジオ

人間は生きていくうえで言葉というものが欠かせなくなっている。もちろんそれは文化に根ざしたもので、言葉以前の赤ん坊の思考というものはどんな風になってるのかな、とか思わず考えずにはいられなくなってしまったのが、この本を読了しての感想だ。
赤ん坊に限らない、人が己を忘れるほど没頭しているとき、心を奪われているとき、一体言語はどういう形になっているのだろう。ここに書かれているような、非論理、非社会的、記号の海、そういったものが満ち溢れているのか、どうか。

私は残念ながらその世界を表現できるだけの力をもたず、ただ、ル・クレジオの描く言葉を読むだけしかできない。しかもそれがどういうものであるのかを説明する力ももたないので、ブログに書いても仕方ないのではないかとつい思ってしまう。だが、伝達という役割を度外視した表現、しかしそれは与えられた言語であるからなにかしらの意味を拾われてしまわずにはいられない、という性質。
言葉というのは実に不思議なものだと思う。

とはいえ、そんな意味不明の言葉ばかりじゃない。中には中二病をいたく刺激しそうな文章などもあって、例えば、私なんかはこんなくだりに心躍った。
なぜいつまでも、感情のうちに、個々別々の力、ときには矛盾し合いさえする力があるという見方にこだわるのか?いくつかの感情があるのではない。ただ一つの、生命の形があるだけ、それが多種多様な力にしたがってわれわれに顕示されるのだ。この形をこそ、われわれは再発見せねばならぬ。この形、無の反対物、眼の輝きの湾、光と火との河、それは絶え間なく、弱さなしに、こうして、人を導き、引っ張ってゆくのだ、死にいたるまで。

物質的恍惚 (岩波文庫)
物質的恍惚 (岩波文庫)ル・クレジオ 豊崎 光一

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2014年10月04日

コーラン(上)(中)(下) 井筒俊彦訳

読みました、コーラン。
前半は主に社会的な規範について述べてる部分が多く、宗教書というよりは法律書のようなものに近いなあと思いつつ、読みすすめるうちにアッラーへの帰依と来世の復活とそれに伴う審判についての話題が多くなり、中巻以降で私のイメージする宗教書に近くなってくる。

まあ、ごたごたいっても始まりません。井筒先生もおっしゃってるように、コーランの理解においては当時の社会状況と、マホメットについての知識があったほうがよりいい。なんといっても、かのダンテの『新曲』のように、マホメットの個人的な私怨(?)とおぼしきもの(と、異教徒だからこんな解釈になるのです)がところどころにでてきてるなあという感想を私はいだいて読了したわけです。

ということで井筒先生は解説にマホメット時代のことが書かれているわけですが、それによるとなんでも両親を早くになくした彼は正確な生まれ年がわかっていないとのこと。それが25歳のとき、40歳の会社経営の未亡人に見出されて結婚。つまり逆玉なんですな。さらに、啓示を受け始めたとき、彼自身は悪霊に取り付かれたと思い込んでいたのをこの妻がそれは神の霊感だと信じて、夫を預言者として全面的に応援したという肝っ玉ぶり。もちろん狂信的ではなく一流の商人のような冷静さと計算は忘れない。
さらに、後年、遷行(ヒジュラ)を実施したときには妻を始めとする援護してくれた身内が亡くなっていて、絶対絶命のピンチだったマホメットは、ここから類希なる政治力を発揮して、メディナにおいて、強力な宗教共同体を築いたというのだから凄い。日本の秀吉にちょっと似ているかも。恵まれない境遇の幼少期とか、有力者に見出されるとか、女好きな点とか。

そういうことを踏まえてコーランを読むと、なかなか味わいのある書物だなあと思うわけです。
皆さんも機会があれば一度。
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コーラン 上 (岩波文庫 青 813-1)井筒 俊彦

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コーラン〈中〉 (岩波文庫)
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2014年09月18日

エウパリノス/魂と舞踏/樹についての対話 ポール・ヴァレリー

古代ギリシャ哲学者の名を借りて対話形式で知性と芸術、あるいは美について語る3つの作品は純正とは何かということをまざまざと考えさせてくれる。それはまた、魂という不可解にして謎、しかしその言葉から連想される何者かをさぐる試みでもあろう。

『エウパリノス』においては、建築と音楽という最も具象的なものと最も抽象的な芸術の中に真理を見出そうとする。しかし、哲学はそれとはちがう道を歩んできており、そこにソクラテスの苦悩を感じ取ることができるような内容となっている。
『魂と舞踏』では、自在な動きのなかに究極のものを見ようとする試み。
『樹についての対話』においては樹と人間と大地、そして成長する精神、をルクレティウスの名を借りて牧人と対話している。

私は、特に『樹についての対話』が好きである。
特につぎのくだりには深く共感することができる。ちょっと長くなるけど引用させてもらう。

 
ルクレティウス さあ、このわたしにひとつの<寓話>以上にましなことが言えるかどうか… わたしは、おまえに、わたしがときに感じる、わたし自身が<植物>であるという感情について話そうと思っていた。考える<植物>、しかし自分のさまざまな能力を区別せず、自分の形態を自分の力から、自分の居場所を自分の土地から区別しない植物だ。力、形態、大きさ、そして量も持続も、同じ一筋の実在の大河にすぎず、液体が涸れた最期にはきわめて堅固な個体となって終わる満ち潮にすぎない。他方で漠とした成長への意欲は上昇し、炸裂して、種子という無数の軽やかな相のもとに、ふたたび意欲となろうと欲する。そして、わたしは自分が<植物の典型>の未聞の企てを生きているのを感じて、空間を侵略し、梢の夢を即興し、泥土のただなかに潜り込んで大地の塩に酔い、他方で、外気のなかでは、大空の気前のよさへと、数千の緑の唇をつぎつぎと開いてゆく…大地のなかへと深く入りこんでゆけばゆくほど、空高くへと上ってゆくのだ。不定形なものを鎖でつなぎ、空虚を攻撃する。一切を自分自身へと変えるために戦うのであり、そこにこそ、この<植物>の理念(イデー)がある!…おお、ティティルスよ、わたしには、<植物>がわたしに命じてくる、あの力強い、活動的な、そしておのれの意図に厳密に従う瞑想に自分が全存在をあげて参加しているように思えるのだ……

エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話 (岩波文庫)
エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話 (岩波文庫)ポール ヴァレリー Paul Val´ery

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2014年08月23日

舞姫タイスを再読

前に角川文庫で読んだ『舞姫タイス』を今回は白水uブックスで読み返してみた。
(以前の記事)

前回は聖者パフニュスの言動を皮肉な目で読んでしまったのだけれども、今回はパフニュスの人間としての弱さを読み取ることができた。タイスを修道院へ導いた後苦しんで狂人のごとき修行をするパフニュスの姿。
そんな中、聖アントニウスが信仰篤いが愚鈍を言われているポールにヴィジョンを語らせた場面が心に残った。
覚書として引用しておこうと思う。

《愚直者》ポールは目を挙げた。その顔は輝き、その舌は滑らかに動き出した。
「天のなかに」と彼は口走った、「緋色と金色の布に飾られた寝台がひとつ見えます。そのまわりでは三人の童貞女が、その寝台へ迎えられるべく運命付けられている選ばれたもの以外のいかなる霊魂を寄せ付けまいと、用心深く警戒しております。」

パフニュスは、その寝台こそは自分が享ける無窮の栄光のシンボルにちがいないと思い込んで、早くも神に感謝した。しかし、アントニウスは、《愚直者》の言葉を黙って聞くようにと身ぶりで彼に合図した。ポールは入神の境地に浸りながら、呟きづつけた、
「三人の童貞女が私に話しかけます。こう言います―『ひとりの聖女が下界を去られようとしております、アレクサンドリアのタイスが亡くなられようとしております。それで、わたくしたちは、その方の栄誉の寝台を支度したのです。なぜなら、わたくしたち三人は、その方の徳、つまり、(信仰)と(恐れ)と、(愛)との化身なのですから』と」

アントニウスが訊ねた、
「懐かしき子よ、ほかになにか見えぬかな?」

ポールは、ただいたずらに、上下四方をきょろきょろと見まわしてしたが、そのとき、不意に、彼の目はアンティノエの修道院長パフニュスの目とかち合った。聖い恐怖が彼の顔を真っ青にし、その瞳には目に見えぬ炎がまざまざと反映した。
「歓喜に満ちた三匹の悪魔が」と彼は呟いた、「この男を捕らえようと身構えているのが見えます。その悪魔どもは、一見塔のように、女のように、ベツレヘムの博士のように見えます。三匹とも焼きごてで印した名前をつけています―最初のは額に、二番目のは腹に、三番目のは胸に。その名前は(傲慢)、(淫猥)、(懐疑)の三つです。見えるのはそれだけです」

こういい終わると、ポールは、目をきょろきょろさせ、口をだらりと開けて、もとの愚鈍さに返ってしまった。
(P242~P243)

舞姫タイス (白水Uブックス―海外小説の誘惑 (145))
舞姫タイス (白水Uブックス―海外小説の誘惑 (145))アナトール・フランス 水野 成夫

白水社 2003-07
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2014年03月22日

サテュリコン ペトロニウス

『クオ・ワディス』を読んで、ペトロニウスという人物に興味を覚えた。そして彼が書いた小説があるというのでそのうち読みたいなと思っていたところ、手にいれることができたのが、この岩波文庫の『サテュリコン』である。
このタイトルは好色な野山の精サテュロスたちの物語という意味のほど。主人公のエンコルピオスが若い男の子とともにイタリアのあちこちを放浪しながら無頼を重ねてゆく物語だ。

ペトロニウスはネロがその趣味において彼のいうことしか聞かなくなったと言われるほどに粋人としての名声が高かった。その彼の書く無頼小説は当時の爛熟したローマ帝国文明の退廃振りをよく描写しているように思う。
『クオ・ワディス』から受けた彼の印象からして、この小説は彼独特の価値基準と批評眼に貫かれ、また当時隆盛していたストア派のようなストイックな哲学に対する一種の挑戦であり、人間賛歌のようにも読めた。
しかし、訳者解題の中で「若きネロのモデルと考えられないだろうか」という一文を見たときに、もしかすると、これは韜晦されたネロへの批評あるいはそれこそ彼への諷刺として書かれたとしたなら…ペトロニウスならありえる、と妄想をたくましくしてしまった。どうもペトロニウスって阿諛追従しなさそうに見えるんだよね。だからネロを楽しませることもできるし、それが彼への毒でもある小説を書くことはペトロニウスなら充分できると思うのであった。

まあ、しかし、この文庫にはセネカの諷刺小説も載ってるんだけど、さすがに『サテュリコン』と並べるのは酷なような気がした。人には向き不向き、得手不得手というものがあって、どうみてもセネカにこの種の毒を含んだ文章を洗練された方法で書く才能は乏しいのではないだろうかと思わせるのであった。
サテュリコン―古代ローマの諷刺小説 (岩波文庫)
サテュリコン―古代ローマの諷刺小説 (岩波文庫)ガイウス ペトロニウス 国原 吉之助

岩波書店 1991-07-16
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タグ:ローマ
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2014年03月19日

エセー(2巻13章~37章、3巻) モンテーニュ

去年10月に読了したエセーの続き。
古今の名言集的な様相だった前半にくらべ、3巻あたりからはモンテーニュの人生の考え方が色濃く現れてきている。すなわち、自己の良心に従い自己の感覚に従って節制に努めながらも人生を楽しく生きること。というとなんだかエピキュリアンみたいだけど、そうじゃなくて、過去の優れた思想は所詮他人の借り物なのであるから自分の感覚や良心に従え、というのが趣旨のようだ。
最後の部分、すごく引用したい部分があるので、そこを引用して、感想に代えさせていただく。

“われわれの精神は、肉体が必要を満たすのに用いるわずかの時間も、肉体から離れなければ、自分の仕事をおこなう時間が足りないと考えたがる。人々は自分から脱け出し、人間から逃げたがる。ばかげたことだ。天使に身を変えようとして動物になる。高く舞い上がるかわりにぶっ倒れる。あの超越的な思想というやつは、近づくことのできない高い場所のように私を恐れさせる。また、ソクラテスの生涯の中で、彼の恍惚状態とか精霊(ダイモーン)にとりつかれたとか言うことほど私にとって理解しがたいものはないし、プラトンにおいて、皆から神のごとき人と言われた理由ほど人間的に思われるものはない。私にはわれわれの学問のうちでは、もっとも高く上ったものがもっとも現世的で卑俗であるように思われる。アレクサンドロスの生涯の中で、自分を不死化しようと考えたことほど、卑しく、人間臭いものはないと思う。フィロタスはこれに答えて彼を茶化して手紙をやって、ユピテル神であるアンモンのの宣託で神々の列に加えられたことを祝って「あなたのためには喜ばしい。けれども、人民のためには気の毒です。人民は、人間の尺度に満足せず、人間を超越する人とともに生き、その人に服従しなければなりませんから」といった。(ここでホラティウス「カルミナ」からの引用―《おまえは神々に服従しているから、世界を支配しているのだ》
アテナイ人たちがポンペイウスの市内への入城を讃えて彫った次の可愛らしい碑文は私の考えと一致する
(プルタルコス英雄伝ポンペイウス篇27の引用―あなたは自ら人間であることを認めるから、ますます神とあがめられる)
自分の存在を正しく享受することを知ることはほとんど神に近い絶対の完成である。われわれは自分の境遇を享受することを知らないために、他人の境遇を求め、自分の状態を知らないために、われわれの外へでようとする。だが、竹馬に乗っても何もならない。なぜなら、竹馬に乗っても所詮は自分の足で歩かなければならないし、世界でもっとも高い玉座に昇っても、やはり自分の尻の上に坐っているからである。”
―エセー3巻13章より
世界古典文学全集 第38巻 モンテーニュ 2
世界古典文学全集 第38巻 モンテーニュ 2モンテーニュ 原 二郎

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タグ:人間
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2014年03月06日

ブランビラ王女 E.T.A.ホフマン

ホフマンの作品というとちょっと陰惨なイメージのものも少なくないが、この作品はいわゆるロマン派のファンタジックな部分を諷刺して喜劇に仕立て上げた感のする面白い作品。
舞台はイタリア、時は謝肉祭で、三文悲劇役者のジーリオがお針娘ジアチンタと恋人なんであるのだが、なぜか、ジーリオはどこぞの国からやってきたというブランビラ王女が自分を好いてると思い込んで、まわりから頭がおかしくなったのかと思われてしまう。
一方、ジアチンタはジアチンタのほうで、どこぞの国の王子から求婚されたという話を付き添いのベアトリーチェ婆さんにしゃべっており、婆さんはそんな夢想みたいなことを、などとジアチンタをたしなめたりしている。
何が現実で、なにが夢や空想や妄想なのか、カーニバルの中で仮装した人々の中ではなんとも見分けがつきにくいし、おまけにホフマンのことだ、この手の現実と空想の錯綜を描かせると読者は妖しげな世界に迷い込んでしまう。

妖しげと書くと、なんだか悲劇やファンタジーの世界のように思えるが、これは徹底的に喜劇だ。ジーリオの振る舞いがもう喜劇的。悲劇役者ジーリオが自分でもおかしいと思うほどに世界は不可思議な姿を見せる。これはジーリオの妄想なのか、カーニバルの余興なのか、めまいがするほどの迷走だ。
とにかく、この迷走振りとドタバタぶりを充分楽しむことのできる向きには面白い作品。
ブランビラ王女 (ちくま文庫)
ブランビラ王女 (ちくま文庫)E.T.A. ホフマン 種村 季弘

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タグ:ドイツ文学
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2013年12月26日

大帝ピョートル アンリ・トロワイヤ

ロシア、その混沌さと広大さはヨーロッパとは一線を画す。
その眠りを覚ますかのように、近代化を図り、ヨーロッパ諸国の仲間入りを果たしたのがピョートル大帝だ。
ロシアを近代国家に作り上げた彼の手腕とその人柄はまた実にロシア的な混沌に溢れている。
職人気質といいたくなるほどの技術への傾倒、ヨーロッパ趣味はまず長所になるだろうが、祖国の迷妄さを嫌った故の冒涜や普段の破天荒な振る舞いには驚かされる。そして、近代化に向けて国民に多大な犠牲を強いたのも彼であった。
重税、徴発、拷問、等等、もう読んでいて私など震え上がるくらいの酷薄さで国民は駆り立てられてゆく。あのペテルブルグもたくさんの犠牲の上に築き上げられた、ピョートルの「天国」であった。

正直、実際胸が塞がれるような思いになるのだが、このような気質が確かに後年ロシア文学として結晶したのだろうと考えると、なんだが不思議な心地になってくる。ロシア文学に感じる人間の愚かさと偉大さは確かにピョートルに存分に備わっているのである。こういってはなんだが、カラマーゾフの兄弟に出てくるミーチャみたいな矛盾を生き抜いてきているのである。

というわけで、読むのにえらく時間がかかってしまい、そのわりにうまく感想が書けない。
とにかく、疲れた。もうおなかいっぱい。
大帝ピョートル (中公文庫BIBLIO)
大帝ピョートル (中公文庫BIBLIO)アンリ トロワイヤ Henri Troyat

中央公論新社 2002-10
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タグ:伝記
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2013年12月07日

数の神秘 フランツ・カール・エンドレス

“11に33を掛ける。でてきた答えにまた33を掛ける。これを4回繰り返す。”
これは11月23日に見た夢なのだが、数字ばかり出てきてなんのことやら、という感じ。夢の解釈では象徴の理解が役立つことがある。数字の象徴というものがあるのは知っていたが、せいぜい一桁の数字だったので、11だの、33だの、というのはちょっと不明だった。それで、ネットで探していたときに、数字の象徴について、いろんな文化の例を紹介している本があるんだよ、と書かれていたタイトルがこの『数の神秘』という本である。
1986年の本で、今は絶版だが、古本を探して購入して読んだところこれがなかなか参考になる。数字の象徴についての読み物が若干あって、その後、1~20までの数についての解釈、および、21~10000までの中で特筆すべき象徴をもっている数字を取り上げて解説している。
ピタゴラス派の解釈はもちろん、カバラ、キリスト教、イスラム教、他にも民間の言い伝え、古代アメリカ文化や、仏教、アジアまで多岐に渡る。これを読んでいると、数字というのは無味乾燥な記号ではなくて、豊かな象徴性を持っていることに改めて驚かされる。なるほど、哲学をやるには数学ができなければならない、という言葉はこうしたものに触れると納得できるものがあるな。哲学は論理的でならなければならない一方、象徴についても敏感にならなければならないのだから。

で、冒頭に書いた夢だけど、この本に従って解釈するとこんな風になる。

11の意味→沈黙の数で、罪と償いの数だが、サッカーやフットボールで11人なのはある心理学者によれば人間の不完全性を示す数として解釈している。一方、最近の研究では、11は5+6の和、つまり、天と地の結合、ミクロコスモスとマクロコスモスの合体の象徴と解釈されている。

33の意味→完成の数。キリストがこの世にいたのが33年間、ダビデが国を治めたのが33年間。他にイスラム教では福者の理想年齢が33歳であり、インド神話では11×3=33の神々など。

4の意味→物質界を秩序づける数。「見分けがたい多様性に秩序をもたらした」多くの文明で、4は数える限界だということ。

ここから、「天と地、あるいはミクロコスモスとマクロコスモスの合体を完成させ、秩序付けること。」という意味に解釈できそうだ。もちろん違うかもしれないけど、個人的な数字の意味に心当たりもないので、さしあたりこんなもんだろう。
しかし、夢というのは、回りくどい言い方をするもんだな。
数の神秘
数の神秘フランツ・カール エンドレス アンネマリー シンメル

現代出版 1986-05
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2013年11月24日

不穏の書、断章 フェルナンド・ペソア

芸術や文学を論じるときに、どこぞの精神科医らが病理学的に分析するのはあまり好まないし、それは自分の理解しにくいものをそういうレッテルで分析した気になってしまうところが落とし穴だと思っている。で、自分はやっぱりペソアの文章をよく理解できてなくて、病理的なレッテルで分類してしまいたくなった。
ペソアの世界は離人症的である。すべてが何かしら自分とは関係なく感じられそれに伴う情動が剥ぎ取られたような世界。だが、ペソアのいう「人生と私の間に挟まるガラス板」が割れたとき、そこにどんな光景が見られるだろうか?

私はその光景を密かに河合隼雄が「影の現象学」で書いていたように、一般の人が気づかないが、恐ろしく生々しい地獄の世界が広がっているのではないだろうかと思う。離人症の人はしばしば血なまぐさい夢を見るようだ。それは生き生きとしたものが感じられない人生の補償なのかどうかは知らないし、ペソアも夢にたびたび言及しているが、彼がどんな夢を見ているのかは誰にもわからないことだ。

ああ、だからといって、ペソアがそれを見るだけで実際触れることがないので倦怠しているとかそういう話なのではない。もともと人は「行動」するためにそういうものは見なくてもすむような精神構造になっているだろうし、そういうものを見てしまうもの、そしてそれを表現せずにはいられないものが文学なり芸術を生み出す。ただ、ペソアは徹底してその表現すらも「倦怠」するものとして退けてしまう。すべては虚構である。「無常」すらも。そこに、我々が普段疑ってもみもしない自らの感覚から得られる枠組みを破壊する言葉をつむぎだす。
…私はあまりにしばしば自分自身の虚構となってしまうので、感じることができる自然なあらゆる感情が、現れるとすぐさま変わって、想像上の感情になってしまうほどだ。想い出が夢に変化し、夢が夢の忘却に変化し、自分についての知識が自分に関するあらゆる考えの不在に変化する…(不穏の書22)

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)
新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)フェルナンド・ペソア 澤田 直

平凡社 2013-01-12
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2013年10月29日

チェーホフ短篇集

福武文庫のチェーホフ短篇集には『ともしび』『六号室』『すぐり』『恋について』『可愛い女』『犬を連れた奥さん』の六篇が収録されている。帝政ロシア末期の退廃した社会を背景に人々の心を描く。

『六号室』はちょっと恐ろしい。善良だが押しが弱く流されやすい医者が精神病棟にいた貴族の患者の話に夢中になり、気がつけば彼も同じ病棟に閉じ込められてしまったという話。ストア派の説く苦痛への軽蔑について患者に話すのだが、患者はこういって彼の言うことに反駁する。
「僕にわかっているのは、神が暖かい血と神経とでこの僕を創ったということだけです、そうですとも!有機的な組織は生命力があるなら、あらゆる刺激に反応するのが当然なんです。だから僕も反応するんですよ!苦しみに対しては悲鳴と涙で、卑劣さに対しては、憤りで、醜悪さに対しては嫌悪で応ずるんです。僕に言わせりゃ、これがもともと生命とよばれるものなんだ。有機体が低級になればなるほど、感受性が少なくなって、刺激に対する反応も弱くなるし、高級になればなるほど、感受性も強く、現実に対してよりエネルギッシュに反応するんです。…(略)」

観念的な考えをもてあそぶ医師への痛烈な言葉。医師は刺激的な彼の言葉を面白がって会話しているけれども、病室に送り込まれたときに、貴族患者の言っていたことが実感として襲ってくる。
人は自分の身に降りかかってないとき、ともすれば観念的で立派なことを考えて人にいってしまいがちであるけれども、これはこうした人々に対しての批判ともいえる短篇である。

『犬を連れた奥さん』はちょっとアバンチュールのつもりで誘った女性が忘れられなくなってしまう男性の話。この話を人生の落とし穴とみるべきか、それとも人生の崇高さとみるべきか、それは人によって違うだろう。ただ、倫理や常識だけが人生ではないということ。いや、それらを軽視してよいという話ではないんだが、しょせん倫理や常識は人間の理性がつくったものであって、それを超える生命力の前で人はどう生きていくか、そこのところがよく描かれていると思う。ここでも『六号室』の患者がストア派の考えを批判するように、人間の理性だけが素晴らしいものだということに意義を唱えているように思う。
ちなみに、トルストイはこの作品に出てくる主人公たちを「動物」と称したが、私の感覚からするとトルストイの絶賛した『可愛い女』の主人公のほうがよっぽど動物的に見える。もっとも、だからこそ愛嬌があって「可愛い人」なんだけどもね。
チェーホフ短篇集 (福武文庫)
チェーホフ短篇集 (福武文庫)アントン・パーヴロヴィチ チェーホフ 原 卓也

福武書店 1988-11
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タグ:ロシア文学
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