2014年09月29日

繁栄の昭和 筒井康隆

大正モダニズムの雰囲気濃い建物にあるオフィスに勤める探偵小説好きの経理事務員。その事務員が周りの様子を説明しているところから始まる『繁栄の昭和』はいかにもなにか事件の起こりそうな予兆を感じさせないでもない。そして、実際、事件は起こるのであるが、そんな中でも事務員はランチをとりながらお気に入りの小説を読み、パイプ煙草を燻らせるという平和な日常も送っている。
読みすすめていくうちに、事務員は自分のいる世界がひょっとしたら当たり前の世界ではなくて、お気に入りの作家の書く小説内にいるのかもしれないと思う。まあ、実際に事務員は読者の目から見ると、筒井康隆の小説の世界にいるのであるが、かといってこの事務員の感じたことをまるで突飛な考え方のように思うのもどうかな、と思う。
我々は、普段、意識しなければ自分はこの環境のままで日常生活を送っていると思いがちなのではないだろうか。ある程度の年齢になると、何気ない日常を過ごしているうちに、ある日、突如、この日常生活だっていつか終わる日が来るということを思い出し、いかに自分がのんべんだらりと年も取らずに過ごしていると思い込んできたかということに、愕然とすることがあるのではないかと推測する、というか自分がそうなんだけど、そういうことを思い出したときに、この小説の言ってるところを読むと、人がまずまず幸福に過ごしているときというのは、こんな虚構内のような現象の中に心の住処を得ているのではないかと思うのである。
少しの楽しみと、自分自身に降りかかりそうな降りかからないようなちょっとした刺激。

『リア王』は楽しい小説だった。これぞ筒井さんの人間賛歌のような気がしてならない。
まあ、信一郎の憮然とする気持ちもわからないではないけれど、逆に大時代的で悲劇的な世界も、楽しい御伽噺の一つなのかもしれないなあ、と思わせるIt's A Small Worldには皮肉よりもこの世への慈しみが感じられるのだった。

他に『一族散らし語り』に見られるどことなく昔話めいたテイストや、『役割演技』のようなディストピアぶりも健在であります。
繁栄の昭和
繁栄の昭和筒井 康隆

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タグ:筒井康隆
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2014年09月27日

誰か故郷を想はざる 寺山修司

昨年、寺山修司の没後30年ということでとある記事を目にしたのだが、その中に彼が故郷を問われるとこう答えたという文章があった。
「四十七都道府県のうち唯一、色彩の入る青森県」それも「『罪と罰』のラスコーリニコフの振り上げた斧に似た下北半島の直下、老婆の割られ血まみれた頭蓋の部分=青森市」
(北海道新聞2013年6月10日付け、時評俳句欄)

寺山修司に関してはそれほど関心をもっていなくて、この時評に載っている俳句にもさほど興味を惹かれなかったのであるが、この故郷の紹介についてはひどく印象にのこった。

そんな中、自叙伝らしくない自叙伝と紹介されてるこの本を目にしたので、興味半分で読み始めたところ、意外にも幼少期の思い出の中に先ほどと同じような故郷の紹介文を目にする。著者が数学にある種の比喩を見出した頃の話だが、自分の家の番地が459番地であることについてこう述べているのである。
“ああ、地獄番地。四五九は死後苦とも読めた。死のあとも苦しむ番地、どっちにしてもそれは片影の迷路だった。ぼくは自分の持ち物に、大工町地獄番地寺山修司と画くことに戦慄を感じ始めた。…(p40)”


彼のこうした感性はどこからくるものであろうか?同じように貧困や各種の障害を持ちつつも近代の社会性をうまく取り入れて富豪や教授になるものがいる一方で、反社会性にまで行き着きそうな暗黒を表現するために生きてくる人間と、なんだか不思議な気がする。実際、わたし自身はやっぱり著者の競馬やボクシングの世界にはあまりなじめず、賭博気質からも程遠いし、それゆえ、彼の表現があまりよくわからないことが多い。それでも、少し著者の心情も共感できるかな、という部分がある。
だが、あらゆる想像力はイヌではあり得ない。現実の飢餓の報復を想像力にはたしてもらおうという考え方は、想像力と現実との不幸な雑居生活化であり、実人生の恨みつらみを他ではらしてしまうことである。(p68)


私は精神分析用語でいう昇華ということを、どんなに高尚であろうと欺瞞は欺瞞であると考えているので、この点については、まったくうまい表現だと思ったのであった。
誰か故郷を想はざる―自叙伝らしくなく (角川文庫 緑 315-4)
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2014年09月18日

エウパリノス/魂と舞踏/樹についての対話 ポール・ヴァレリー

古代ギリシャ哲学者の名を借りて対話形式で知性と芸術、あるいは美について語る3つの作品は純正とは何かということをまざまざと考えさせてくれる。それはまた、魂という不可解にして謎、しかしその言葉から連想される何者かをさぐる試みでもあろう。

『エウパリノス』においては、建築と音楽という最も具象的なものと最も抽象的な芸術の中に真理を見出そうとする。しかし、哲学はそれとはちがう道を歩んできており、そこにソクラテスの苦悩を感じ取ることができるような内容となっている。
『魂と舞踏』では、自在な動きのなかに究極のものを見ようとする試み。
『樹についての対話』においては樹と人間と大地、そして成長する精神、をルクレティウスの名を借りて牧人と対話している。

私は、特に『樹についての対話』が好きである。
特につぎのくだりには深く共感することができる。ちょっと長くなるけど引用させてもらう。

 
ルクレティウス さあ、このわたしにひとつの<寓話>以上にましなことが言えるかどうか… わたしは、おまえに、わたしがときに感じる、わたし自身が<植物>であるという感情について話そうと思っていた。考える<植物>、しかし自分のさまざまな能力を区別せず、自分の形態を自分の力から、自分の居場所を自分の土地から区別しない植物だ。力、形態、大きさ、そして量も持続も、同じ一筋の実在の大河にすぎず、液体が涸れた最期にはきわめて堅固な個体となって終わる満ち潮にすぎない。他方で漠とした成長への意欲は上昇し、炸裂して、種子という無数の軽やかな相のもとに、ふたたび意欲となろうと欲する。そして、わたしは自分が<植物の典型>の未聞の企てを生きているのを感じて、空間を侵略し、梢の夢を即興し、泥土のただなかに潜り込んで大地の塩に酔い、他方で、外気のなかでは、大空の気前のよさへと、数千の緑の唇をつぎつぎと開いてゆく…大地のなかへと深く入りこんでゆけばゆくほど、空高くへと上ってゆくのだ。不定形なものを鎖でつなぎ、空虚を攻撃する。一切を自分自身へと変えるために戦うのであり、そこにこそ、この<植物>の理念(イデー)がある!…おお、ティティルスよ、わたしには、<植物>がわたしに命じてくる、あの力強い、活動的な、そしておのれの意図に厳密に従う瞑想に自分が全存在をあげて参加しているように思えるのだ……

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2014年09月06日

2014年8月

期間 : 2014年08月
読了数 : 2 冊
舞姫タイス (白水Uブックス―海外小説の誘惑 (145))
アナトール・フランス / 白水社 (2003-07)
読了日:2014年8月23日
再読。うまくいえないけれども高尚なものといわゆる俗なものとか劣ったもの悪魔の仕業などとの対比に考えさせられる。聖アントニウスがポールに語らせた場面はちょっと感激した。
弓張ノ月-居眠り磐音江戸双紙(46) (双葉文庫)
佐伯 泰英 / 双葉社 (2014-07-09)
読了日:2014年8月10日
posted by てけすた at 15:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 本 (その他雑談) | 更新情報をチェックする