TOP > 2012年12月
2012年12月31日

ビリー・バッド ハーマン・メルヴィル

メルヴィルの遺作は社会と個人の問題のようでいてその実神話的なにおいのする小説である。
強制募集で商船『人間の権利(略称:人権)』から軍艦『軍神』の乗組員になったビリー・バッドはハンサム・セラーといわれるほどの美貌と清らかさをもつ。そのあまりにも清純な容貌が、どことなく悪魔的な雰囲気の武器係り兵曹長クラッガードをいらだたせ、ビリーに陰湿な嫌がらせをわからないように行うのだが、とうとうある事件が起こり、ビリーはクラッガードを撲殺してしまうのである。
といっても、ビリーがその明るい容貌の陰に暗い部分があったというわけではなく、悪を知らぬ彼が初めて見せ付けられた悪意に気が動転しての殴打なのである。
二人の性格の描写を読んできた読者としては、当然ビリーに情状酌量の余地はあると考えるのであるが、判決は有罪。

ヴィア艦長はここで軍律のことを述べる。このあたり、ソクラテスの悪法でも法は法だ、といったことを髣髴させる。集団生活で善といわれるものと悪と呼ばれるものの逆転があった場合、裁きの場面は紛糾する。法を遵守することに忸怩たるものを感じるが、法を優先させず、情状を酌量していると混乱が生まれてくる。
だが、この場面はそういった裁きの問題以上に、信仰上における象徴があるようだ。
ビリーの清浄さはまったく宗教的なレベルまで高められており、一方、クラッガードはその描写からして現代人を思わせるようなところがある。清浄さが薄暗い懐疑を打ちのめした、とも考えられるし、もはや神なき社会においては、そういう自然は制御されるべきものである、という意味の処刑かもしれない。
いずれにしろ、この処刑においては本文で書かれているように
あたかも年老いたアブラハムが、若い独り子なるイサクを縛り、決然として生贄の壇に捧げつつも、(軍務という)神を畏れよとの厳命に服しようとしたときが、こうもあったであろう。

というヴィア艦長の思いが込められているのであろう。

しかし、船の名前がまた象徴的なのが、神話的雰囲気をいっそうと深めてくれる。
善悪とはなんであるか、メルヴィルは善悪のとる役割を逆転して法の裁きを描いたわけであるが、それが文明批判ともなる一方で、アブラハムとイサクの話を引用することによって神話的な象徴にまでなった。しかし、そうした「聖餐の秘儀」を信じたヴィア艦長も敵船『無神論者』の銃によって斃れてしまう。当時の世界が文明を信じていた頃のメルヴィルの懐疑は深いものがあったのだろうな、と思う。
ビリー・バッド (岩波文庫 赤 308-4)
ビリー・バッド (岩波文庫 赤 308-4)メルヴィル 坂下 昇

岩波書店 1976-01-16
売り上げランキング : 333894


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by てけすた at 12:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本 (翻訳もの)| edit | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2012年12月28日

男の系譜 池波正太郎

戦国時代から幕末維新までの時代は歴史時代小説の華となる時代である。そんな時代に生きた男たちについて、池波正太郎が、あつく語るという一冊。
あくまで池波正太郎の人物観ということになるのだが、これが結構面白い。
秀吉が実は高貴な血を引いていたのではないかという話を紹介したり、戦争に明け暮れていた信長や秀吉が同時に文化の担い手だったこと、秀忠が家康の影に隠れてしまってるが、たいした政治家だったことなど、いわれてみればそうだな、と思うようなことが言及されている。
後年からみれば、いろいろ批判したいところは出てくるし、価値観も違うため、ついゴシップ趣味に走っていろいろ弱点なんぞを面白がって読んでしまう自分には反省するところがいっぱいだわ。

高く評価されてる人物もあるし、手厳しく批判されてる人物もあるが、大石内蔵助についての話は現在の人間にもわかりやすいところがあるのではないかと思う。
とにかく彼は昼行灯といわれながらも、猛る赤穂浪士を抑えて、お家再興の手を尽くしてから大義名分を得て幕府への抗議という形で討ち入りを行ったという、神経のつかいかたを池波正太郎は絶賛している。そして家の中を治めていくことはなまやさしいことではないが、それをしないと男として一人前にならないとまでいっている。
ところどころ女についてくさしている部分は昔の人っぽいのであるが、上記のようにそれだけの責任を自覚することを促すところは、感心し、くさすだけくさして自分の責任に知らん顔しているような男とはえらい違いだ、と思う。
ちなみに、弁当男子をくさしていた某社長が一時ネットで話題になりましたが、食べるものについても神経使ったのが昔の戦国武将である、と池波正太郎は、「男子厨房に入らず」系の意見をばっさり切り捨ててるのもちょっと痛快だった。
別に悪口いうのはかまわないんですよ。私も女はどうのこうのという部分にはカチンとくるんだが、それ以上の男のあり方に厳しく注文をつけてるんで、まあ仕方ないかと許してしまう。
ダンディズムだねい。
男の系譜 (新潮文庫)
男の系譜 (新潮文庫)池波 正太郎

新潮社 1985-11
売り上げランキング : 152615


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

タグ:歴史
posted by てけすた at 12:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本 (国内) 小説以外の著書| edit | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2012年12月24日

樹をみつめて 中井久夫

あとがきで「四苦八苦」したという「戦争と平和についての観察」はその甲斐があってかなりの力作になっている。一読して思うのは、気がついたら戦争に突き進むしかなくなっていた、という怖さである。
戦争の危機が訪れやすいのは、戦争を体験した世代が引退したりいなくなったりしたときだ、というのはなんとなくわかる。戦争の過酷さを知らない世代が、指導層を占めると、戦争への心理的抵抗が低下する。その彼らは戦争を発動する権限だけは手にしているが、戦争とはどういうものであるか、その終わらせ方や得失について考える能力も経験もなく、この欠落を自覚さえしなくなるという。
また、民衆の心理的バリアーも低下する。国家社会の永続と安全に関係しない末梢的な摩擦に際しても、容易に煽動されるようになる、とした上で、国境線についての例を挙げている。
国境線についての些細な対立がいかに重大な不正、侮辱、軽視とされ「ばかにするな」「なめるな」の大合唱となってきたことか。(p64)

でもなあ、今回問題の発端となったあの政治家は中井先生と同世代ではありませんでしたか?
戦争を体験したはずの世代でもこういう人間が出てくるのだから、なんというかほんと度し難いもんですなあ、人間は。
まあ、それはさておき、話を続けると、中井先生はちょっと怖いことを書いている。あとがきで述べてることなのだが、日本の太平洋戦争はヨーロッパでいうところの第一次大戦に相当するということ。
日本はまだ本当の試練に出会ってないのかもしれない、という。

他に収録された文章は、精神医学の話のほかに、神戸の町の話や、本書のタイトルにもなった樹木についての文章、また翻訳など、多岐にわたる。
「戦争と平和についての観察」と並ぶもう一つの長文「神谷美恵子さんの「人と読書」をめぐって」は残念ながら自分は彼女の本をほとんど読んでいないので、あまりよくわからなかったのだが、その幅広い教養と誠実さはわからないなりに感じられ、機会があれば神谷さんの「生きがいについて」を読んでみようと思った。
樹をみつめて
樹をみつめて中井 久夫

みすず書房 2006-09-01
売り上げランキング : 39372


Amazonで詳しく見る
by G-Tools



posted by てけすた at 20:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本 (国内) 小説以外の著書| edit | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2012年12月22日

大洪水 ル・クレジオ

まるで散文詩のように徐々に都市の歪む姿を描写したプロローグはなかなか難解であった。もっともこれは偏に私の想像力が欠けてるせいである。自分は文章から地形のありようを思い描くのが苦手なのだ。
それでも死の影をやどしたこの都市の姿は、次から始まるベッソンの彷徨にも現れ、そこでこの描写はベッソンの見る、外界の圧倒的な存在感の裏返しとして死の影なのであるということが徐々にわかってくる。ベッソンはテープを聴いている。それはとある女性が録音した肉声テープなのであるが、彼女の悲痛な告白に触発されたかのように、ベッソンはどんどんと社会における絆を振りほどいてゆく。
この彷徨で圧倒されるのは、視線である。
視線ほど攻撃的なものはない。それは直接肉体を攻撃するものではないが、全く暴力的だ。また、視線だけではなく、見えるものそれ自体がなにか恐ろしげなものに変容していく。

ベッソンのこの異常な体験は、見るということの恐ろしさを感じてしまう。見るということは情報の洪水だ。普段、人はこの情報の洪水に流されるだけであり、流されてることに気がついたものはそれに恐怖するのではあるまいか。
盲目の新聞売りとの会話のあと、彼はこんなことを思う。
なんの音も、視線も怖れることはないし、求めるものはなにもないだろう。落ち着いた、狭い、狭い小屋の中に坐って、内側からしか見ることができぬ長い見世物を、ゆっくりと楽しむことができるだろう。

盲目になりたいわけではないが、何か疲れているようなときは情報にさらされすぎた自分に気がつくことがあって、そんなときは何も見たくないと思う。

なのにこの小説はまさに視覚の充満する小説であり、逆説的なものだなと思わないでもない。
大洪水 (河出文庫)
大洪水 (河出文庫)J M G ル クレジオ 望月 芳郎

河出書房新社 2009-02-04
売り上げランキング : 450079


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by てけすた at 14:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本 (翻訳もの)| edit | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2012年12月18日

世に棲む患者 中井久夫

本書は主に1980年代に医療関係者(医師)の集まりで語られたものや、医療関係の雑誌に載せられたものを集めた文庫本であるが、医療ということを突き抜けて、一般の人にとっても社会において疎外されたりつらいことがあったりするときに大変参考になるのではないかという内容である。

Tの章では統合失調症患者について、社会復帰に関しての文章なのであるが、ここで働くということの意味を問いかけている。普通、常識的には社会復帰というと働くことができるようになることを考えてしまいがちなのであるが、このような考え方は働くまでにはまだ体力が足りないまでも通常の生活を送れる患者にいらぬ重責を与えて萎縮させてしまうのではないかという疑問を投げかけている。
無理に働こうとして長続きせず、それが悪循環になることすらある。
こうした問題を提起してから、小さな消費活動をしながら活動範囲をだんだんと広げていくような方法だと統合失調症患者は社会参加しやすいということを述べている。
考えてみれば、日本社会はずいぶんと働かない人間に厳しいし、その働くことの質も高いものが求められて、体力のないものが無理せずに働くことができる環境というのはずいぶん少ないのではないかと思う。このあたりが生きづらさに通じてるのではあるまいか。そしてこういった思想は実はカルヴィニストたちの労働改造の思想の起因するだろう、としている。

Uの章では統合失調症のほかにアルコール依存症や、妄想症、境界例、強迫症について語っているのをまとめている。この章を読んでいると、病気ということを突き抜けて一般社会にも見られる小さないさかいやトラブルがこうした心性からきているのではないかということに気づかされるのではあるまいか。
たとえ病気ではないにしろ、人間である以上、やはり欲望や権力意思と無関係ではいられないからだ。
Vの章は医療現場における人間関係についてだが、これらは医師へ向けられて講演されたものとはいえ、患者になる側にとっても、医師とどう向き合っていけばよいのか、という参考になる。

というわけで、生きづらい社会をどう過ごしていけばよいのか、というヒントとして読める。
1980年代と現代では世相は大いに違っているけれども、人間の本質というのはそれほど違わないから。
世に棲む患者 中井久夫コレクション 1巻 (全4巻) (ちくま学芸文庫)
世に棲む患者 中井久夫コレクション 1巻 (全4巻) (ちくま学芸文庫)中井 久夫

筑摩書房 2011-03-09
売り上げランキング : 51970


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

タグ:精神疾患
posted by てけすた at 12:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本 (国内) 小説以外の著書| edit | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2012年12月15日

光圀伝 冲方 丁

のっけから能舞台での最中の手打ちシーンが出てきて、おっ、と思った。
なぜ彼を成敗しなくてはならなかったか、ここに至るまでの道のりがそのままこの小説の内容となっていて、興味をそそられる。
詩作から始まった彼の文事はやがて伯父の影響をうけて歴史へと傾いてゆくが、そもそもその契機となるのが、兄を差し置いて自分が世子となったということの一種のすまなさからきているようだ。理由を知りたいと思うがなかなか納得する答えに出会わない。
詩作の詩趣を得るために始めた学問も、いつしか己の苦しみに対する答えを探し出すためのものとなってゆく。
その道筋が落ち着いた筆調で描かれており、一歩間違えれば英雄譚のように大げさなものなりかねない光圀の若い時代の話をじっくり読ませてくれる。
藩主になるまでの時代は教養小説的に光圀が親しいものの死を何度も乗り越えながら、自分なりの「義」を見つけ出し、それをいかに実現してゆくか―周りのものを悲しませないような方法で―、がテーマになっており、このあたりの試行錯誤はエンタメといいながら、しっかりとした人物伝になっている。

そしていよいよ後半、義もしっかり遂行し、藩政をつかさどりながら、理想の世を目指して進む年月に、なぜ彼を手打ちにしなくてはならなくなったのか、その種が知らず知らず育っていたことが最後の最後まで読んで判明する。
正義とはなんであるのか。
正義であればどんな手段でもとらざるを得ないのか。

ところで明日は衆議院選挙。ずいぶんと正義を振りかざす言論が多いけれども、正義こそ気をつけなければならない。誰かの犠牲の上に築かれる正義というのは果たして正義なのであろうか?
とまあ、そんなことも考えながら読み終わった。
光圀伝
光圀伝冲方 丁

角川書店(角川グループパブリッシング) 2012-09-01
売り上げランキング : 3733


Amazonで詳しく見る
by G-Tools


タグ:歴史小説
posted by てけすた at 21:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本 (国内) 小説| edit | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2012年12月11日

現代精神医学批判 計見一雄

精神疾患とは心の病と一般的には認識されている。ところが精神と肉体という二元論においては精神が肉体よりも優先し、人間の崇高なものといわれることが多い。結果、精神が病んだといえばなにが人間でなくなったかのようなイメージに精神疾患に対する差別や無理解が起こる。
これは代表的な偏見の一つであるが、果たして精神とは肉体なのではないか?それをなおざりにしている精神医学に疑問を呈したのが本書である。
本書の批判を読むと、近年脳科学が発達したことと、もともと精神医学が科学を目指していたことと合わせてその診断は治療方法はどちらかというといわば病気のカテゴライズと治療マニュアルに沿ったやり方が横行しているような印象を受ける。
そこでは患者に対する細かい観察や、丁寧な看護が抜け落ちているのではなかろうか。
著者の精神科医に対する批判に患者の体を触らない、というのがある。症状だけ聞いてカテゴライズされた疾患名からピックアップし、それに合う薬を処方し、といったところであろうか。
しかもその症状を聞くといっても、その症状による患者の苦痛に寄り添うことなく、「ああ、こういう症状が出てるから異常」これで終わりである。

著者が臨床経験の中で組み立ててきた考えが面白い。
わかりやすいのは内なる攻撃性の表現がうまくいかなくなるのが精神疾患だということ。
人は生の攻撃性をなんらかの目的達成のためのエネルギーや自己表現に加工して使うことで危険な生の攻撃性エネルギーをうまく流していくことができるのだが、うつ病の場合には周囲の期待にこたえて自分の攻撃性を抑圧しているうちにうまく流れなくなって滞留し、統合失調症では周囲の期待にこたえる以前に攻撃性そのものを発散する術を知らないという。
また、「アフォーダンス」という理論を取り入れて、そこから自他の関わり合いから精神疾患について述べてることも興味深い。アフォーダンスとはうまくいえないのだが、なんでも環境の中にある事物が持つ、私が意図したものを許容してくれる条件ということで、生物はアフォーダンスを探索しながら生きていく。
また、知覚と運動は実は分けられないという知見も紹介し、精神と肉体をはじめとして客観主観、自他などの二分法による見方に意義を唱えている。
いろいろ盛りだくさんだが、結局のところ、あとがきの最後に書かれた言葉がこの本を書かせた動機になるのだろうな。
…異存があるのは、肉体とは切り離された精神という前提はそのままにして、精神現象を「脳科学」で扱うという、まるで手品かアクロバットのような手法です。

現代精神医学批判
現代精神医学批判計見 一雄

平凡社 2012-11-23
売り上げランキング : 4513


Amazonで詳しく見る
by G-Tools
タグ:精神疾患
posted by てけすた at 19:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本 (国内) 小説以外の著書| edit | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2012年12月09日

海底二万里(上)(下) ジュール・ヴェルヌ

「ネモ船長とめぐる海底二万里の旅!」
謎の怪物が潜水艦ノーチラス号でとらわれの身なのにも関わらず、海底をめぐる魅力に状況も忘れて楽しむアロナックス教授が微笑ましい。
大半が海の生物たちの名前の羅列で、また当時の科学の最先端であっただろう知識を駆使して描写する海の様子は、よくわからないなりにも、なんとなく水族館で感じる「美味しそう(魚が)」という感覚が湧き上がってくるのは、海洋民族たるものの性なんだろうか、などと思いながら物語上でこの旅を楽しんだ。
とはいえ、ネモ船長の隠された側面には暗い影があり、これが単なるファンタジーではないことを示している。

19世紀は科学と技術が大いに進歩し、そこで人間が踏み込んでいける領域も増え、そこから開ける展望を胸に期待と楽観がこの小説にふんだんに盛り込まれている一方で、政治経済はどうであったかといえばこれはあいも変わらぬ争いがあり、こちらのほうはあまり進歩していないのではないか。いやこれは今に至るまでそう思わざるを得ないのだけど、ネモ船長の言動から見るに、理想的な人間といえども、この人間の暗い側面はなかなかに克服することが大変なのではないかと思う。
そして、あの悲劇的な結末。

結局、輝かしい技術革新や科学の進歩も、人間の覇権を求める暗い欲望の前においてはその輝きも鈍くなってしまう。考えてみれば、古典となったSFとはこの明るい面と暗い面の2つでせめぎあう人間の姿をいつも描写していたのではなかったか。
海底二万里〈上〉 (岩波文庫)
海底二万里〈上〉 (岩波文庫)ジュール ヴェルヌ 朝比奈 美知子

岩波書店 2007-08-17
売り上げランキング : 151129


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

海底二万里〈下〉 (岩波文庫)
海底二万里〈下〉 (岩波文庫)ジュール ヴェルヌ 朝比奈 美知子

岩波書店 2007-09-14
売り上げランキング : 152066


Amazonで詳しく見る
by G-Tools


タグ:SF
posted by てけすた at 10:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本 (翻訳もの)| edit | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2012年12月06日

人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている 岡本太郎

驚くべきこと。
私は五人の男を叩き殺してしまった。
やむにやまれぬ自己防衛だったが。
すぐに発覚して、警官の群れが私を捕らえようと追ってきた。じわじわと包囲をかためてくる。…(中略)…
しかし…と身のまわりをさぐった。柔かい手ざわり。私はベッドの中にいるのだ。
うむ、オレは人殺しをした。だがその時はわが家で寝ていたんだ。これでアリバイが成り立つ。大丈夫だ。ほっと救われる思い。そしてまた眠りに落ちた。夢だったのである。

岡本太郎は「残念!しかし」という文章の中で、こういうピンチに陥るが、自分がベッドで寝ているから大丈夫だ、という認識を得る夢をときどき見る、ということを書いていて、最初は笑ったが、あとからじわじわとこの人は凄いひとだなあ、と感嘆したのであった。
今を生きること、その強固な意志が感じられる岡本太郎であるが、それは夢の中にまで浸透しているという徹底振りを知ったからである。
本当は単に、普段の自分の無鉄砲さについての言い訳のような夢なのかもしれないけれども、半分明晰夢のようなこういう夢は自分がこれから何をすべきなのか、ということをはっきり自覚したいという意思の表れではなかろうか、なんてことを考えたのである。

この本は1975年に『にらめっこ』というタイトルで出版されたものを改題。再構成したものである。
両親について、パリ時代の話、恋愛、身のまわりのできごとなどをつづったエッセイを集めたものである。
子供の目からみた岡本かの子のことや、ベル・エポック時代のパリの雰囲気などが伝わってくるし、なにより岡本太郎のいろんな側面を知ることができる面白い本である。
そして、私はさきほど紹介した「残念!しかし」というエッセイに彼のはったりではない意思の強さを見出して瞠目したのであった。
人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。 (文庫ぎんが堂)
人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。 (文庫ぎんが堂)岡本 太郎

イースト・プレス 2009-05-01
売り上げランキング : 85887


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

タグ:人間
posted by てけすた at 08:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本 (国内) 小説以外の著書| edit | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2012年12月03日

弱いロボット 岡田美智男

人は歩くにしても、言葉をしゃべるにしろ最初から完結したものではないという。
著者の説明によれば、歩きは地面にその一歩をゆだねることであるし、喋るというのはまず発語して後、その言葉に触発されて次の言葉が続くようなものである、というのである。もしそれがなければ、歩くことは地面ですり足をして地面を確かめて重心移動を行ってからというぎこちないしぐさになり、喋りは機械に録音されたような味気ないものになってしまうであろうな、と思う。
著者は雑談とはなにか、という疑問から発して、人間の行いが閉鎖されたシステムではなく、周りの環境にナビゲートされていくようなオープンなシステムなのではないかというところに行き着いた。
そこで、登場してくるのが、本タイトル『弱いロボット』である。
ロボットといえば人間の能力を凌駕さえするような高機能のものが追い求められてきたが、たとえばこれでアンドロイドを作ったとして、果たして人間らしさが出てくるのか?と問われれば将来はわからないが、今のところ誰しもがそうではあるまいと答えるだろう。
そこで、外見や能力を限りなく削っていて、それでもなにか人間らしくなるとしたらなんであろうか?
そうして出来上がったロボットは反応したり少しは動いたりするのだが、何もできない赤ん坊のようなものであった。そしてその曖昧さが実に生き物らしい関係性を人々に与えてくれるのである。

この本を読むと、今まで、社会では実に完璧主義がまかり通っていたと痛感する。なにかのリハビリにおいても、これが完璧にできなければ元に戻ることはできないというような意識が先行していたのではあるまいか。
しかし、人が生きるということは、人間関係をはじめとして、いろいろな環境との関わり合いが大きくものをいっていることにつきる。もちろん個人の能力は必要だが、むしろ環境との関わり合いでそれにナビゲートされつつ行動していくことを考えるならば、まだ完璧にできなくても、まず一歩踏み出してみる、そしてそこに見えてくる変化を手がかりにまた一歩進む、こういうやり方のほうがストレスが少なくてすむのではあるまいか。「弱いロボット」はそういう支えあいを必要とするロボットであり、「強いロボット」ではなかなか実現することのできない関係性をもつことができる意味で人間らしさとはなにか教えてくれる。
弱いロボット (シリーズ ケアをひらく)
弱いロボット (シリーズ ケアをひらく)岡田 美智男

医学書院 2012-08-24
売り上げランキング : 57824


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

タグ:人間
posted by てけすた at 20:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本 (国内) 小説以外の著書| edit | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
【PR】【Bizoux(ビズー)】公式通販サイト