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2012年05月23日

バイ貝 町田康

“貨幣は鋳造された自由である”とはドストエフスキーが「死の家の記録」で書いていたことだけど、蓋し自由を得るには何かの束縛を受けなければならん、そしてその鬱を散じるためにカネを使うと、まあこんな感じで小説は始まる。
これは鬱屈した主人公がどのような買い物をして鬱を散じるかということなのだが、ホムセンで鎌を買うのに3045円の富士月光を買うか280円のタマニホンにするか迷うところから始まり、買い物にまつわるさまざまな出来事を町田節でダメダメな方向へと進展するお約束な内容である。
買い物は確かに楽しい。だが、購入して期待を裏切られたときの失望感は私も心当たりがあるので苦笑しながら読んでしまった。
しかし、買い物依存でもない人でもモノを買うという行為が気分を高揚させるのはなぜなんだろう?やっぱり自由を感じるから?いやでもただ好きなものを値段を考えずに買うというのではあまり面白くない。モノの品質と自分の予算との駆け引きが奇妙なスリルを生み出す、そのあたりかなとも思う。
この小説も、そんなモノの品質と自分の予算との駆け引きが巧妙に描かれており、それがなんとなく笑いを誘う。
バイ貝
バイ貝町田 康

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タグ:人間心理
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2012年05月15日

コラムの闘争 カレル・チャペック

今品切れで、おそらくは青土社からだされてるシリーズにばらばらに入っているであろう、カレル・チャペックのコラムの選集本である。年代順に並べられて、最後はあの有名な「ごあいさつ」で締めくくられている。
訳者あとがきによれば、チャペックの幅広い守備範囲を知ってもらうために特に分野を選ばずにアトランダムに入れたということであるが、日常のちょっとした気づきから政治、国際関係の話までさまざまである。
チャペックがいつも述べているのは、主義主張を超えて、人間そのものについて理解しあうことに尽きるといってもよい。当時の社会情勢では右、でなければ左、というふうに主義主張を色分けしてお互いに対立しあっていたものだから、チャペックのような考え方は、右からはアカだといわれ、左からは体制拠りだといわれ、双方から批判されたのであった。
このところ、社会情勢を見るにつけ、昔の右左のようにちょいと考え方が極端になってる人が増えてきているような気がする。そして1938.1.16と1.23に書かれた「幾つかの決まり文句」みたいな言葉が聞かれる。たとえばこんな言葉。
「われわれの名誉にかけて」あるいは「威信にかけて」は何かが精力的に求められているとき、とくに民族や国家の名洋画かかっているときに言われます。ある国が自国の名誉にかけて、誰かに何かいいものとか、快いものを差し出すなんてことをとんと聞いたことがありません。たとえば略奪されている民族に自由を返したり、何かの罪を免責にするとかです。名誉にかけて何かを提供するのではなく、何かを欲しがるのです。隣家との垣根の無効で名誉が語られはじめたら、すぐに自分の家のめんどりをとり小屋へしまいこんで用心したほうがいい。

「平和が保証されるために」は、地上でも空でも海上でも、通常軍備が増強されなければなりません。連中のすることといえば、こんなこと。しかし考えてもみてください。これは「われわれの事務所で平和な共存が保証されるために、私は弾を込めたレボルバーを携帯する」とか「わたしたちの町の通りに静けさを保つために、私は手投げ弾をポケットに詰めて歩く」と言うのと同じではありませんか。そうしたら、まったく奇妙な世界と言わざるをえない。まったく奇妙な世界だ!

まったく、その通りだと思うんだが、時代は彼に味方しなかった。
1938年12月。ヨーロッパの平凡な風景を思い起こしたコラム「ごあいさつ」が掲載されたとき、カレル・チャペックは48年の生涯を閉じた。
コラムの闘争―ジャーナリスト カレル・チャペックの仕事
コラムの闘争―ジャーナリスト カレル・チャペックの仕事カレル チャペック Karel Capek

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2012年05月12日

渋江抽斎 森鴎外

渋江抽斎という人物を森鴎外が知ったのは、趣味で武鑑を集めていたときに、古書に渋江の蔵書印のあるものをよく見かけたから、ということである。そこからかの人物に興味を持ち、調べ始めたといういきさつが最初に書かれていた。まず、その探索において血族を探すところからはじめ、そして渋江抽斎の話になるのだが、この本はなんといったらいいのかな。史伝という言い方がされてるようであるが、確かに伝記とするには、抽斎の影うすいのは確か。
というのも主人公を抽斎としてみると、なんと本の途中でなくなってしまうという展開になるのである。そしてその家族や子孫がどうなったかという話が続く。また抽斎が存命中のときの話でも、その交友関係に出てくる人々のエピソードが散りばめられて、この点でも抽斎の影は薄い。
時代は、幕末から明治。あの激動の時代を生きた家族たちの物語と考えるのが一番わかりやすい。
抽斎は医者の家系だが、学問をよくしたし、劇なども好んでよくみた。彼の交友にはそんな関係の人々が出てきて、当時の様子を生き生きと伝えてくれる。
また、彼の家族、妻五百の魅力的なところや、子供の中でも不肖の息子優善の放蕩ぶりなども面白く読める。
特に五百については、若いころの鬼退治のことや、賊が抽斎を襲わんとしたときの活躍ぶりなど、もうヒロイン扱いである。
一つの時代を描くという意図が森鴎外にあったのかどうかは知らないけれども、ここに激動の時代を生きた一族を通じてその苦難が伝わってくる。感情を極力排した文章だけど、それだけに読むものには却って自分の中に潜むさまざまな感情を見出すことにもなる。
結末、子孫たちがそれぞれに生きている姿は、抽斎の面影がしのばれ、人というのは、死してもその面影は生きてるものに残るものなのだ、ということを改めてかみしめた。
渋江抽斎 (中公文庫)
渋江抽斎 (中公文庫)森 鴎外

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タグ:家族
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2012年05月08日

ヒンドゥー教 ニロッド・C・チョウドリー

ヒンドゥー教といえばあの某カルトが勝手に名称を使ったとか、サイババとか和尚とかなんとなく怪しいんだよね。なんでこんなに怪しいのか。
その怪しさを含め、ヒンドゥーについて語ったのが、ベンガル(現バングラディシュ)生まれの著者である。
まず、指摘したのは現在神秘に満ちたヒンドゥーの姿は西洋の目にさらされたために教護の必要を感じて釈明なされたものが大半であるということであった。一方西洋は西洋で現地に入った人々の報告を除けば、すでに作り上げられた伝説、深遠な知恵、といったイメージでずっと見続けていた。ところが、ヒンドゥーというのは、西洋人が考える宗教の概念とは違い、生活と宗教は一体のものであり、その多様性は聖から俗まであって、著者のいうところによれば、それは一個の宗教教義ではなく、一個の宗教観を指し示すということである。
ということで具体的な中身に入るわけであるのだが、生活に深く入り込む宗教的な習俗や儀式や、実は単なる欲望の充足にすぎないのではないかと思われる宗教に託けた性的放縦、そして先ほどの怪しさの話からすれば、聖者とは精神性の優れたものではなく、超能力や奇蹟を行うことのできる能力をもつ人物とか、かなり即物的な面があるのである。だからといってヒンドゥーが素朴な宗教なのかというとそうではない。一方でウパニシャッドのような高度の哲学があったりして、まさにピンからキリまで、ということなのである。
読んでると、仏教との共通点が見られたり、日本にあるケガレ観によく似た習俗があったりとか、かと思えば、一神教的な側面もあったり、まさに宗教の縮図である。その多様性はなんでも排除しない寛容性から来ているというが、一方、非アーリア人への差別は非常に過酷だったりする。
読む限り著者はヒンドゥーを通してインド世界を語っているが、その視点には生まれ民族ばかりではなく、後年住んだ英米からの視点も見え隠れする。特にキリスト教との比較においてその教養はいかんなく発揮され、その対比でインドという底知れない文化がくっきりと浮かび上がってくるのである。
ヒンドゥー教
ヒンドゥー教ニロッド・C. チョウドリー Nirad C. Chaudhuri

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タグ:宗教
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2012年05月03日

空海の夢 松岡正剛

空海についての小説や本をぼちぼち読んでるが、なかなかに奥深くて私はいまだによくわからない。
今回読んだ松岡正剛著の「空海の夢」とは空海が何を志向していたのかということを書いてるのかなと勝手にタイトルから想像していたが、そうではなかった。それは古今東西の人間が考えたこと、発見したこと、つまり哲学や科学や思想を空海という人物を媒介にして語っている、というニュアンスが強かった。いわば、空海の残した世界は人類の残してきた足跡とどうリンクするのか、ということを、著者の編集力を生かして語っているのである。
だから、正直いうと空海という人物のことはあまりはっきりとした輪郭はこの本では捉えることができないのであるが、科学の発見やたくさんの思想が盛り込まれているのを読んでいくにつれて、世界はこんなにも豊かだったのか、というような感想を抱いた。それもまたとりとめのないことなのであるが、あとがきに著者も書いていたように、これは空海の夢ばかりではなく、著者も読者もそれぞれが見る夢、そしてそれは多様でありながら一つの世界である。
空海の夢
空海の夢松岡 正剛

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タグ:空海
posted by てけすた at 18:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本 (国内) 小説以外の著書| edit | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2012年05月01日

第四間氷期 安部公房

安部公房の小説はSFといえども、どこか深い夢の中を漂ってるような気がする。
それはやけに人間くさいコンピューターの予言ということから始まって、不条理な事件、驚くべき未来の図式など、個人の意表をついたり、考えたくもないような出来事が次々に起こってくるからである。
夢といえば、頼木の存在なんかはかなり不気味である。主人公勝見博士の右腕的存在でありながら、話が進むにつれて、どこか見知らぬ人物のような雰囲気が漂いだしてくる。この怪しさもまた夢のようである。
しかし小説の中の話は、未来が夢のごとき曖昧さでなく、くもりなき明確さによって提示されるのだから普通の人ならちょっと耐え難いだろうなあと思う。
その耐え難いところを自分が設計したコンピューターへの愛着から耐えて行くのが勝見博士なのであるが、彼がその性格ゆえに断罪されてゆくところを見るのはなかなかつらい。自分もかなり似た部分(保守的)があるからだ。
この勝見博士に代表される驚愕する未来への拒否反応と、それを肯定する人々との対峙は、そのまま現在の地球規模の問題で対峙する姿と重なる。我々は幸か不幸か先が見えない。いや、見えてるつもりなんだが、小説内のコンピューターに言わせれば全然分析できてないところだろう。
今、大地震のあとの原発事故を目撃した時代にいて、放射能の問題はとてつもない形で展開するかもしれないなあ、などと思ってしまう結末なのであった。
第四間氷期 (新潮文庫)
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タグ:SF
posted by てけすた at 13:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本 (国内) 小説| edit | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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