2012年04月29日

精神のエネルギー アンリ・ベルクソン

意識といわれるものが一体どういうものなのであるか、古今東西いろんな人が考察してきたわけで、といっても、具体的に誰それがとなるといえないのが私の頭の限界で、イメージだけで語っていることをお許しください。そんななかで、今回読んだベルクソンはちょっと感銘を受けた。といっても、実はよくわかってないで読んでたりするのですけど、とにかく、精神と脳、これはつまりこういう思考をしているとき、脳はこう動いているとか、思考のやどるところは脳であるとかそういう風にいわれているのを飛び出して、意識は実は我々の身体の中ではなくてもっと違う形をとってるんじゃないかというのだ。ベルクソンからいわせれば、脳とは記憶を保持している場所ではなくて、記憶を呼び起こすときに使う部位であって、記憶そのものは脳に保持されてるわけではないという。
自分の頭があまりうまく働かないので、違うかもしれないけれども、この部分を読んで思ったのはインターネットと通信機器とそれを使う人という関係だ。インターネットが物質であり、通信機器が脳、使う人が意識ということになる。そう考えると、通信機器が考えてインターネットを使いこなすわけではないのだから、脳もそれ自体は考えているわけではないということなのかな、と勝手に納得しております。

ベルクソンは、「〈生きている人のまぼろし〉と〈心霊研究〉」という章の中で、現在の科学は計量可能な形に変換されるのだが、精神は計量可能にできない。それをとにかく計量可能にしてみようということで脳が注目されたということを言っているが、確かに脳が精神だ、というのは納得できるようで、でもなんか違うな、という感じはする。もちろん、ベルクソンが述べてるように精神が身体を超えており、ゆえに死後の魂の可能性にも触れられていることについてもろ手を挙げて賛成しているわけではないのだが、でも、そういうのがひょっとしたらあるかもしれないと思わせてくれる。
いやあ、読んでいてその結論にいたるまでの説明がちんぷんかんぷんなんですが、他の本も読み、この本もまたあとで読み返してみたいと思います。
精神のエネルギー (平凡社ライブラリー)
精神のエネルギー (平凡社ライブラリー)アンリ ベルクソン 原 章二

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タグ:哲学
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2012年04月25日

夢日記 正木ひろし

筒井康隆篇「夢探偵」のなかで正木ひろしの夢を読んだのもうだいぶ昔のことになる。「老論理学者の死」などは随分と綺麗に、もちろん意識的にまとめたものであろうけど、ちょっとした小説になってるので、面白く読んだものだった。
それから時はたち、そんなことはすっかり忘れてしまったころ、清沢冽の日記で名前をお見かけしたので、なんとなく懐かしくなり、どうせなら本を手に入れて全部読んでみようかという気になったのであった。
結論からいえば、大半がよくわからなくて、その仲でも筒井さんは面白そうな夢を選び出しており、さすがだと感じた。私は正木氏の活躍をよく知らないので、夢の読みどころがあまりつかめてないというせいもある。とはいえ筒井さんが選び出さなかった、「海の独語」という童話仕立ての話を読めたので、本手に入れてよかったな、と思うのが今の心境。
この「海の独語」というのは、海が私はすべてであるという意識をもつまで、藍色の魚が私だと思っていた、というような内容である。中身はちょいと今で言うスピリチュアル的であるが、こういう考え方を正木氏はどこで手に入れたのだろうか?もし、これが前にどこかで読むとかしたものでなく、夢の中で、ということなのであれば、私という存在は偏在している、というような宗教的思想は根源的なものであるのかもしれないと思った。
ところで、収録されてる夢を読んでみて、後半、もう六十代、七十代になってから、ご本人がちょっとふざけて誰かをからかうような夢がちょくちょく出てくる。こういうのは、普段真面目だからその補償としてそういう夢が出てくるのか、それとも、もともと人を驚かせたりすることが好きで、こういう願望充足的に出てくるのか、まあ、私は後者だと思うんだけど、なんとなく愉快で面白いなあと思った。
夢の大半はよくわからないなりに、このような理解できるようなできないような文章を味わいながら読んでいくのもまた一興ではある。
夢日記 (1974年)
夢日記 (1974年)正木 ひろし

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夢探偵 (「光る話」の花束)
夢探偵 (「光る話」の花束)筒井 康隆

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タグ: 日記
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2012年04月20日

東京焼盡 内田百閒

昭和19年11月1日から昭和20年8月21日までの日記だが、これは本文中知人に宛てて書いた手紙にあるとおり、作品代わりの日記であることもあって、百閒先生の名調子が読めるのはありがたい。
日記は空襲警報の細かい時間と酒の入手が主な内容である。ドナルド・キーンの著作からこうして戦時中の日記をいくらか読んで、少しは戦時中のことを理解できたのかといえばそうでなかったことはこの空襲警報の記述で、こんなにもたくさん警報があったのかという驚きで自覚した。戦争になれば否応なしに国土のみならず人心も荒廃していくような心地がする。
しかし、そんな若干寒気を伴うような内容にも関わらず、酒にこだわる百閒先生自身のことや、皮肉っぽいユーモア、身の回りの品物に対する記述がなんともいい味を出していて、これこそが作家の書く作品としての日記なのだなあと思う。
それにところどころ入る含蓄ある名言。
焼け野原を見て、敵が憎いとか味方が意気地ないと嘆ずるより漱石がいったとされる「陽気の所為で神も気違いなる」という言葉を思い出したという先生。
町内のおかみさんたちに家を取り潰したあとの片付けをさせ、町内の役員と云う男はその傍に立って監督するということに、「あきれた事が平気で行われる世の中なり。」と書く先生。
かと思えば、家にものが増えてくると正体のわからぬ憂悶となるから、空っぽうのがらんどうの新宅に手ぶらで引っ越したい、ということが本当に実現したらいい気持ちだろうと考えた、それがはからずも焼け出されて、20数年前の空想がやや実現した様である、などと5月の空襲時で家が焼けてしまったとき、そう淡々と綴る先生。
他にもあるんだけど、こういう散見できる文句になんとはなしに感心してしまうんだよなあ、わたしは。
なぜなら、そこにはまぎれもない「生活」の雰囲気があるから。
戦争が起こったら、「生活」はどうなるのか、ということがよく理解できる形で書いてるのがこの日記なのである。
内田百けん集成22 東京焼盡
内田百けん集成22 東京焼盡内田 百けん

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2012年04月15日

カレル・チャペック イヴァン・クリーマ

カレル・チャペックといえば、ユーモアと機知にあふれた文章とその洞察力で私など随分感心しながら読んだものだ。そのような一連の作品の評論と私生活から彼の人物像に迫るのがこの本である。
著者は外国ではもしかしたら作品があまり翻訳されていないかもしれないと配慮し随分といろんな作品を長く引用している。それだけでもチャペックが遺した作品の大まかな全容が見えて有り難い。
またチャペックの職業柄、当時の世相と鋭く密接して語られているので、人物像だけでなく、当時のチェコスロバキアの様子も伝わってくる。
いや、人の不思議というのはいろいろあるが、2つの大戦に挟まれた20年間、チェコスロバキアは共和国として独立しているのだが、まるでそれに呼応するようにチャペックはデモクラシーやプラグマチックなことを大切にする。後年、戦争の影が濃くなってきて、人々がファナティックに特定の主義を振りかざし始めたとき、チャペックはそれを憂い、鋭く警告を発する。そしてナチスの台頭により共和国の終焉とともに彼も息を引き取った、その不思議さ。
チャペックは優等生ではあったが、決して自信家であったわけではない。虚弱さと神経過敏なところがあって、男らしさにはむしろコンプレックスをもっていたようだ。まあ、だからこそあれだけの才気を持っていたのだろうと逆に思ってしまう。
それにしても、非常時における知識人のダメダメさというのは日本に限ったことではないらしく、チャペックもデモクラシーから特定の主義にはしった知識人たちを裏切りだと非難している。
あとで言い訳するのも一緒。
まあ、知識人といえども人間だから間違いをおかすことはあるけど、間違ったときには素直に認める度量だけはもって欲しいところですな。
カレル・チャペック
カレル・チャペックイヴァン クリーマ Ivan Klima

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タグ:評伝
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2012年04月13日

古事記の世界 西郷信綱

古事記はまだ本格的に読んだことナシ。ただ幼い頃の日本神話と題する読み物で古事記に出てくる話を幾つか読んだことがある程度だ。なにしろ本屋でぱらりとめくった岩波文庫の古事記は古文だし、どうにも読めそうにない。そこで、まずは解説書からということで、西郷信綱先生の本を選んでみた。
いやいや、西郷先生の本は初めて読んだけど、随分面白い。
まず、古事記をどう読むかというところで神話や象徴に対する無理解な「抽象的合理主義」を批判し、さらにこの本においては古事記を古代人の経験のあらわれとして読みたいということだった。
そして本文において、日本の神事や政治的背景と、古事記の記述を刷り合わせていきながら、古代人の心性を考察してゆく過程はさながら暗合文書の解読を読むようで実に面白い。
ここで断っておきたいのは、この古代人の生活と古事記の内容は歴史的な事実を必ずしも反映しているわけではないということである。現に西郷先生は、日向がどこにあったとか、神武天皇は実在したのか、といった実在との関係を議論するのは筋違いであるというようなことを述べてらっしゃる。
すなわち、神武天皇についていえば、神話的時間の終りと歴史的時間の始まりの移り変わりを象徴するような時代の人物であるといったような考察をしているのである。
こういう考察の仕方を古事記をテキストとして示しているのが、本書だということもできる。
これはまさしく文学の一つの読み方であるなあ。
実際、西郷先生の結論として、「古事記は7世紀における現代文学」とまでいっているのですから。
古事記の世界 (岩波新書 青版 E-23) (岩波新書 青版 654)
古事記の世界 (岩波新書 青版 E-23) (岩波新書 青版 654)西郷 信綱

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タグ:神話
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2012年04月11日

インド・アート―神話と象徴 ハインリッヒ・ツィンマー

インドの思想や文化をほとんど知らない。だが、仏教発祥の地がインドであることを考えると少しは知っておかなくてはならないのではないかと考えて、図書館にあったこの本を手にしたのだが、うん、読んでよかった。
仏教全体とはいわないが、空海の著を読んだ上で密教用語や道具が実にインドの神話からの影響を色濃く受けているのがみてとれた。仏教とヒンドゥーは長いこと共存してきたので、お互いがお互いに影響しあってるのであろう。
それからそれ以上に収穫だったのは、インドの神話と象徴がもしかしたら人類の妄想をほとんどカバーしているのではないかと思うくらい多彩であったことである。
実をいえば、以前私はこの世界は巨人のからだの中にあり、私のからだの中にも微細だが完全な宇宙があって、そこにまた人が住んでいて…などと入れ子的な宇宙のありかたを夢想したものだったが、この単なる夢想が、インドではヴィシュヌのからだの中にある世界、という形で神話になってることを知り、へえ、と興味深く思ったのであった。
ところで自然は非情であると先の大震災ではそのことを痛感したが、3つの顔をもつ神の仮面があり、左右の顔は2極の両極が示されているが、真ん中の顔はそれらのことに無関心に静かに瞑想している。
これが自然の人格化とはいわんが、世界の姿の一つとして私の印象に残った。
他にもマーヤー(幻影)についてや、聖なる結婚のこと、踊る神などたくさんの象徴が紹介されていて、インドの奥深さに触れることができる。
著者のツィンマーは1943年に53歳で逝去したが、インドアートにおける造詣の深さを感じさせる説明はインドへの興味をかきたててくる。
インド・アート―神話と象徴 (アジア文化叢書)
インド・アート―神話と象徴 (アジア文化叢書)ハインリッヒ・ツィンマー 宮元 啓一

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タグ:文化 神話
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2012年04月07日

ペンギンの島 アナトール・フランス

渡辺一夫が戦時中の日記の中で小説の構想を練ってる場面があるが、そのときに「ペンギンの島の枠で」と書いていた。注釈によれば、愛読書だったとかいうことで、興味が出てきたので捜してみたらこれがまあ1951年に出版されたっきりで、図書館にあったことは幸いだった。
さて、これはなんというか、一種のヨーロッパに対する諷刺小説である。出だしがなんともすごいぞ。聖マエールがとある島へ流れ着いたときに、ペンギンがたくさんいたのだけど、それを小人と勘違いして洗礼する。で、その様子を天国にいる重役方が見ていて、あの洗礼は有効か無効か議論になって、そこで、キリスト教の儀式についての諷刺がひとくさりある。結局、ペンギンたちに洗礼をしたのは有効ということになって、魂を与えられ、人間になるのだが、このペンギン人の歴史を描いていったものがこの小説なのである。
この、出だしの部分から妙に面白くておかしくて、読み進めていくうちに、伝説が作られる様子を諷刺していたり、単なる強者のエゴイズムに基づいて社会上の通年やしきたりが出来上がっていく過程を描いたり、さらにはフランスで実際にあった社会的事件をモデルとした諷刺や、個人の恋愛が戦争にまで発展する様子を描いたりと、全体が軽妙な諷刺に彩られていて、こういうのが好きな私は狂喜してしまった。

ちょうど、今日本では消費税率についていろいろもめてるが、こんなくだりがこの小説の中にあった。これはある金持ちが、金持ちに多くを要求すると金持ちが貧乏になって、それにつれて貧乏人は一層貧乏になるから金持ちの富は神聖である。財産を調べるのも迷惑がられるだけだし、だから万人平等に軽く課税すると文某人たちも助かる、と主張したあとに、富の計り方は基準があいまいだからとして、
「富の外観は人を惑わしやすいものです。一番確かなことは、万人が飲み且つ食うということです。消費の高に従って人民に課税なさるがよろしうございます。そうなさるのが賢明でもあり、正当でもあるでございましょう。」
と主張する場面なのだが、いやはや、日本もこんな論理で消費税率を上げようとしてるんかいなとか短絡的に思ってしまうほど、この一説は諷刺に満ちていて、アナトール・フランスやるなあ、と感心した。
アナトオル・フランス長篇小説全集〈第14巻〉ペンギンの島 (1951年)
アナトオル・フランス長篇小説全集〈第14巻〉ペンギンの島 (1951年)
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タグ:諷刺
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2012年04月03日

統合失調症ぼくの手記 リチャード・マクリーン

この著者は手記発表当時はグラフィックアーティストとして働いていた。「だいぶよくなっているが完治はしていない」という言葉が重い。そんな彼の統合失調症における内面世界をを綴ったのがこの本だ。
表現力もあるのだろうが、彼の疾患における進行は通常よりもかなり遅かったということなので、徐々に世界が陰謀者によってゆがめられていく過程が明確に捕らえられているのがよくわかる。その文章を読んでいるとまるで不条理な世界と奇矯な行動をする主人公が組み合わされて描かれる小説のように思えてくる。
そう考えると文学の世界は一種の病気なのか、とか思わないでもないが、結局、文学者と病者の違いは、それが意識的かそうでないかという違いだけなのであって、人間の思うことは基本的にはかわらないのではないかと思う。
一時期、芸術家の作品を分析して、その病的なところを指摘するようなことが流行ったことがあったし、病的な作者がいないでもないんだが、それらの作品が人にあたえるインパクトを思ったとき、芸術とはどのような感情にしろ常に人類に揺さぶりをかけるものなのであって、その着想が病気からなのかそうでないのかはこの際あまり重要なことではなく、その内容が問われるのではないか、などと思った。
と、ここで私は、ユングの逸話を思い出す。
ユングが自己の幻想をまとめていたときにしきりに「それは芸術です」という女性の存在。ユングはそれを否定したが、この手記にも同じことがいえそうだ。
結局、文学的ではあるけれども、小説のように読んではならないような気がする。
小説は意識的な「嘘」であるが、この手記はどうあれ本人にとって「リアル」なのであるから。
統合失調症ぼくの手記
統合失調症ぼくの手記リチャード・マクリーン 椎野 淳

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タグ:精神疾患
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2012年04月01日

小説のたくらみ、知の楽しみ 大江健三郎

自分がある文章や小説などに批判的、あるいは嫌悪とまでもいかなくてもなんとなく嫌な感じがする場合、自分の直感を信じればいいこともあるけれども、自分の無知がその文章についての無理解を起こさせてる場合もあるので、印象批評というのは実に自分の弱点をさらけ出すお手軽ではあるがハイリスクなやり方なんだろうなあ、ということをぼんやり思った。
いや、これは今回読んだ本の中身とあまり関係ない。
私は、過去、大江健三郎の一部の作品をセンチメンタルな結末、とかちょっぴり批判的に感想を述べたことがあるのだが、「小説のたくらみ、知の楽しみ」を読んで、それが自分の無知から来る無理解であったことに冷や汗を書いたのであった。
この本の中で、著者は'decent''decency'すなわち真の人間らしさという意味合いをもつ単語について言及している。品性、思いやり、と訳されることのあるこれらの言葉をヴォネガットやオーウェルのことと一緒に論じ、エリアーデから「人間存在の破壊されえぬことの顕現」という言葉について、自分の長男が生まれたときに何を考えたのか、ということが語られていたりする。そこには、たとえどんな風に生きようとも、まぎれもなく存在する人ということに思いをはせ、核(これは1980年代、冷戦時代に書かれた)の時代に生きる我々に、「人間存在の破壊されえぬことの顕現」ということはなんであるかを問いかけている。
私は、障害のある子供が生まれたときに、著者が今まで書いてきた小説はこれからの自分には役に立たない、といったような言葉が印象的であった。
そして、苦しみを見る人、背負う人、いずれにしろ、そういう場面に出くわしてしまった人の祈りとしての文学、ああ、だから苦しみの知らない私などが読むとセンチメンタルに見えてしまったのか、と自分の無知をまたしても突きつけられてしまったような思いをしたのであった。
小説のたくらみ、知の楽しみ (新潮文庫)
小説のたくらみ、知の楽しみ (新潮文庫)大江 健三郎

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タグ:読書
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