2012年03月30日

暗黒日記 清沢 洌

ドナルド・キーン「日本人の戦争」で紹介されていた「暗黒日記」その引用部分を読んで興味が出てきたので、岩波文庫のを借りた。
この本は1942~1945年のうち主だったものを編集してある。
通読して、そのリベラリストとしての発言には敬服した。そこには世論におもねることもまどわされることなく、状況に即したものの見方から日記を綴っている。
役人と軍人による政治のデタラメさや、国民の無知やメンタリティを深く憂慮していることが折々の発言からうかがい知ることができるのだが、その記述たるや、今の日本にも十分通用する感があるのである。
軍人による政治はないけれども、役人は相変わらず画一形式主義で物事を勧めているし、放射能に対する国民の無知、あるいは自分が考えてることは相手の考えてることだろうというメンタリティはあまり変わることがないのではないかと感じたとき、ちょっと寒気がした。
著者は教育の大切さを考える。しかし、戦後70年近くになろうという現在の有様を清沢が見たとしたら、どう思うだろうなあ。あまりのことに憤死(もう死んでるけど)してしまうんじゃないだろうかと想像してしまう。
この日記は今こそ広く読んでもらい、日本人の欠陥を認識した上で、まずは上にたつものが、根拠のない楽観的なものの見方をすることをやめ、合理的思考の訓練、まずはそのあたりから始めないとまずいんじゃないかと考える。これは国民も同じである。とはいっても自分もできてないんで、こんなことをいうのは恐縮なんですが、宣伝しておかないと。とはいえ、この本品切れなんだよね。ああ残念。
まあ、えらそうなことを書いてしまいましたが、アメリカにも日本人収容者を断種しろなどというアホはおります。もっとも、日本もそれに対してそんなことしたら、こっちはアメリカ人50人に対し断種してやる、などとなにやら「修羅維新牢」のような抗議をしていてさらに上回るアホぶりを見せてましたが。
暗黒日記―1942‐1945 (岩波文庫)
暗黒日記―1942‐1945 (岩波文庫)清沢 洌 山本 義彦

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ラベル:日記
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2012年03月27日

渡辺一夫敗戦日記

先にドナルド・キーン著「日本人の戦争」を読んで、その中に出てきた渡辺一夫の日記に感銘を受けた。それで早速読んでみましょう、そうしましょう、ということで図書館から借りてきたのだ。
本の中身は、1945年3月から1946年2月までの日記、串田孫一宛ての手紙数十通、戦後雑誌などに掲載された15篇の文章からなっている。手紙と15篇の文章は日記の理解を深めるための補助的な資料として載せられてるようである。日記は主にフランス語で付けられていた。

ドナルド・キーンが引用した部分だけでも日記の雰囲気は十分伝わるが、全体を改めて読んでみると、国粋主義一色の日本の状態と、それらを危惧すべき知識人がそうでないことによる失望を抱えて苦悩している様子が伝わってくる。国家中枢や軍部については例えばこんなことを書いている。
戦争犯罪者のリストが外ム省にあるさうだ。勿論重慶作製のもの(ここから先は仏語)連中は我々のため、民衆のために死ぬ気はない。奴らは我々を巻き添えにして死のうと思っているし、力と策略により我々を破滅の淵に引きずりこまんとしている。

なんだか、今でもそうでないの、と思ってしまいそうなこの文章。
それから、尊敬する先生が発した言葉に憤慨するような記述。
仏語)辰野、鈴木の両氏、想像力に欠け、かつエゴイスト、それぞれ違うが共に浅ましきエゴイストなり。辰野さん曰く、「今や松本で読書研究三昧の時ではない。」鈴木さん曰く、「僕は焼け落ちるまで我家を守るね。」前者は祖国のために生き残らんと願う弟子たちの身の上を顧慮せず、後者は万人にとって貴重なる書物の損失を敢て考えず。ただ己が生活の静謐をのみ思う。束の間の静謐ならんに。

両氏の真意は私にもわからないが、実に戦争とはこうしたものを失うような事態であり、ゆえにそうしたものを大事にしないような発言に著者は憤りを感じたのだろうと想像する。
一方、こうした言葉のうちうちにも、日本人に対する辛辣な批判も見受けられる。

ところで、ちょっと政治的な話になるけれども、渡辺先生の日記にはこんな一文があった。
(仏語)末期的資本主義、史的唯物論、コミュニズム、ファシズム… こうしたものすべてが、幻燈に映し出された途方もないフィクションのように思われることがある。現実として残るの葉、人間理性の手からあれこれの詭弁を弄して逃れ出る獣性、動物性のみだ、と。こういう見方からすれば、あらゆるイズムは各国が自己正当化のためにふりかざす、嘘で固めた口実にほかならない。

東日本大震災以降、どうも政府のやることが空々しく感じられていたのだが、もしかしたら自分、こういうことをぼんやりと感じていたのかなあ、などと思ったのであった。
渡辺一夫 敗戦日記
渡辺一夫 敗戦日記渡辺 一夫 串田 孫一

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2012年03月25日

ポー詩集 エドガー・アラン・ポー

新潮文庫に収められているのは、ほとんどが女性の死を題材にした憂愁で幻想的なものである。だいたい、有名な「大鴉」自体が、もう亡き愛しい人の面影を追っているところからはじまっているものね。
それはともかく、「大鴉」の“Nevermore”の繰り返しはぞくぞくする。
私なんかもそうなんだけど、どうしても悲しくて悔いが残って、「再び」とか「もう一度」などと思うことはあるんだけど、時の流れは非情だし、鴉がそれを告げるという光景は恐ろしくも、人生や世界の本質を伝えてくれるように思う。
こうしたどうしても取り返しのつかない出来事に対する心痛は人間だけの力ではどうしてもなんとかするのが難しかったりする。人外の世界から告げられるものはもし、それが人間の口から出たらならば耐え難いようなことでも、意外に受け入れられるような気がするのだ。
もちろん、この詩は、そんな意味合いじゃなくて、鬱々とした世界で告げられる悲痛な言葉の繰り返しということなんだろうけど、癒しというのは、その最低最悪どん底まで落ちていったら、見えてくるものなんじゃないかと思うのだ。
主人公は「私の魂が床に浮かんでいる影から脱れることも―またとあるまい(Nevermore)」と〆ているけれども、その死から逃れられないという思いは、最悪の憂鬱であるが、同時に覚悟する自覚へと変換できるのではないだろうか。
人はねえ、感情的にも溺れるだけ溺れて、そこから這い上がってくる体験も必要じゃないかとこの頃は思う。
見知らぬ世界を見るためにも。
ポー詩集 (新潮文庫)
ポー詩集 (新潮文庫)エドガー・アラン ポー Edgar Allan Poe

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2012年03月23日

日本人の戦争 ドナルド・キーン

本作は戦時中の作家の日記の引用から、戦争時の日本について述べている本である。日記はすべて公に出版されたものを使っている。
日記と言うのはなかなか面白いところがあって、他人に見せるつもりであろうとなかろうとそこに日々の断片が積み重なってきて徐々に進行していく変化を見せてくれる。とはいえあまり興味のない話題だと読むのが退屈になるのは日記も同様だが、とにかく日記の特性から戦時中のさまざまな変化を教えてくれる。
もちろん、そういうことだから個々人の作家の日記を読めばそれなりに見えてくるものはある。実際私も山田風太郎の日記は読んでいて、戦争というものがどういうものであるのか、ひとつ具体的なイメージをそこから得たのであるが、実はこれはある一面だけということを痛感したのが、本作でたくさんの作家の日記を比較引用しているのを読んでからのことであった。
こうして俯瞰した日記群は、伊藤整に代表されるような国粋的な発言から、山田風太郎の強硬論、果ては渡辺一夫にみるヒューマニズムなものまで、立体的な形をとり、戦時の面影を映し出してくれる。
この中で一番文学的な日記を書き、引用も一番多かったのが高見順である。戦時中はそれほど引用されてはいないが、戦後の価値観が一転倒するなかでの苦悩や悲しみやとまどいが切々と綴られていて、平野啓一郎じゃないけれども、ちょっと興味をもった作家である。
また、渡辺一夫の日記はあの時代にまわりの国粋的な考えに影響されることなく、ヒューマニズム的な考えを堅持し続けたということは驚異であった。
私は、彼のこの一説が心に残る。
もし竹槍を取ることを強要されたら、行けというところにどこにでも行く。しかし決してアメリカ人は殺さぬ。進んで捕虜になろう。
国民のorgueil(高慢)を増長せしまた人々を呪ふ。すべての不幸はこれに発する。

日本人の戦争―作家の日記を読む (文春文庫)
日本人の戦争―作家の日記を読む (文春文庫)ドナルド キーン Donald Keene

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ラベル:日記
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2012年03月21日

塚原卜伝十二番勝負 津本陽

塚原卜伝といえば山田風太郎の小説で、上泉伊勢守とセットのとぼけたじいさん、というのしか読んでないからなあ。あ、それと“無勝手流”の話かw
なので、私のイメージでは剣豪というよりは奇人な感じになっている。
さすがにこの小説ではそういうおふざけではなくて、若き頃新右衛門と名乗っていた時期からの諸国を巡っての武者修行の様子を描いており、いや、前に鎌田茂雄氏の著作を読んでいて出てきた合気道の話に通じるものがあって、これはこれで結構面白かった。
通じる、というのは、鎌田氏は合気道をやっていて、その体の動きの話やら呼吸の話やらを著作の中に入れながら仏教のことなどを書いていたのだが、津本氏も剣道をやっていたということで、そういう体の動きが結構具体的に書かれており、ただ強いだけの卜伝というくくりではなくて、裏づけがあるかのような具体性に富んでいるのである。それに、試合するにしても、いきなり行うのではなくて、新右衛門ちゃんと下見させて、研究させるようなシーンもあって、剣豪小説をなにかの自己啓発(すいません、また啓発厨です)を読み取るとしたら、これは結構いろいろ読み取ることのできる小説なのである。
だからPHP文庫なんですね。(知らないけど)
啓発厨としてはそのうち「柳生兵庫助」も読んでみようかな。
塚原卜伝十二番勝負 (PHP文庫)
塚原卜伝十二番勝負 (PHP文庫)津本 陽

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ラベル:剣豪
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2012年03月17日

お伽草子 ちくま文庫

どうも気合が入らない。したがってややこしいのは読めない昨今。そこで現代語訳のお伽草子を読むことにした。古文のは申し訳ないがとても読む気力がない。

この本に収録されてる話は全部で13篇。「文正草子」「鉢かつぎ」「物くさ太郎」「蛤の草子」「梵天国」「さいき」「浦島太郎」「酒呑童子」「福冨長者物語」「あきみち」「熊野の御本地のそうし」「三人法師」「秋夜長物語」である。
前半に載ってる話はどちらかというと仏教説話の色合いが濃くて、まあ、わたくし自己啓発の本とか読むの好きなのでそう思ってしまうのかもしれないが、「文正草子」なんかは物事は妥協するな、とか「鉢かつぎ」や「物くさ太郎」などは教養大切とかそんな自己啓発厨な発想ばかりしてしまう。そんな中その啓発厨が発動しない話が3つ。

まずは谷崎潤一郎訳による「三人法師」がとても良い。訳文に情緒があって、3人の法師が語る懺悔物語にほろりとしてしまうのである。
この話は江戸時代に出た「御伽草子」というシリーズ本には入っていないけれどもこの話はなんというか人間の哀愁が漂っている。
調べてみると中公文庫の「聞書抄」に収録されてるようである。ああ、この本持ってるけどまだ未読なのよねえ。

それから「秋夜長物語」(永井龍男訳)これはどうしても隠遁できない高僧が道心を堅固して欲しい祈念したときのお話。御仏ははどういうわけか、堅固とした道心どころか、煩悩の固まりにしてしまうんだけど、その恋物語に人間の情緒を感じる。最後、仏の方便とかいうのが出てくるけれども、まあそれはご愛嬌ということで。

そして、最後にすごいのは「福冨長者物語」(福永武彦訳)なんですか、この話は。山田風太郎あたりがなにか翻案してしまいそうな内容だし、筒井康隆の短篇に出てきそうなラストにぶっとびました。黄金仮面ですw
お伽草子 (ちくま文庫)
お伽草子 (ちくま文庫)福永 武彦

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ラベル:古典
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2012年03月14日

耳トレ! 中川雅文

耳が悪くなったので、図書館へ行くと耳の本をそれとなく探してしまう。耳の本って私の通ってる図書館にはあまりないのだけど、この間、『耳トレ!―こちら難聴・耳鳴り外来です』という本を見つけたので借りてきた。

まず最初に読んでへえと思ったのは難聴と言うのは加齢と相関関係にないということ。あるのは「騒音」と「動脈硬化」なのだとか。だから著者の先生はいう。騒音に気をつけ、体調をととのえよ、と。音楽をイヤホンでがんがん聴いたり、メタボや不健康な生活は耳にはよくない。
とまあ、そういうことであれば難聴は予防しやすいだろうけど、でも、自分の難聴を考えたときに、不健康の証だったのかなあ、などとちょっと釈然としない思いはあるんだよね。イヤホンやコンサートはあまり行かなかったのに。
まあ、それは気にしないことにしよう。もう治らないんだし。

日本語は世界の言語の中でも難聴にやさしい言語なのだそうだ。というのも周波数帯が他の言語よりも低く、高音域からやられていく難聴にとっては最後まで聞き取りやすいというのがあるからなのだそうだ。という理由からではあるまいが、補聴器の普及や手に入れやすさは諸外国とくらべ条件は悪いとのこと。
中川先生はいうよ。外国では補聴器をつけることは普通のことで、ちゃんと両耳につけてるのに対し、日本では片耳だけしか勧めないのは由々しきことだ、片耳だけだとつけてないほうの耳が衰えてゆくじゃないか、と。
補聴器のことはともかく、片耳だけあればいいという考え方に私も違和感をもっていたので、先生いいこというなあと思った。
なにせ、私がかかってる病院の先生は難聴の回復が思わしくないとき「もう片方の耳があるから」なとど平気でいってしまうんだよ。その病院はわりと大きい専門病院なんだけど、そういうところですらそういう認識なのだから、日本は難聴を軽く見ているとしか思えない。

そのほか、ダジャレが中高年男性に多いのは、加齢による難聴と関係あるとか。聞き取りにくくなってくると候補として似たような音の言葉が次々と頭の中に浮かんでくるから。
また、耳がきこえにくいということで誤解による対人関係の軋轢についても述べている。先生もいってるけど、耳が聞こえないということは外国で言葉がわからないのと同じようなものだから、社会的にかなり心細くなるというのはあるなあ。
ヘレンケラーは取り戻すことができるならどれを取り戻したいですか、と訊かれたときに「聴力」と答えたという話を紹介していたが、これもそういうことを考えての発言なのであった。
耳トレ!-こちら難聴・耳鳴り外来です。
耳トレ!-こちら難聴・耳鳴り外来です。中川雅文

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2012年03月12日

空海コレクション2 ちくま学芸文庫

「空海コレクション2」では「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」「般若心経秘鍵」「請来目録」を収録。
密教では三密と呼ばれる教えがあるが、「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」はその教えについて述べているもの。「般若心経秘鍵」は大般若菩薩のさとりの境地を説いた密経と本の説明にあるが、十住心的にそれぞれの仏教の教えがそこに含まれているという解釈をしている。「請来目録」はそのタイトルどおり、空海が持ち帰った品物の目録と留学についての報告書である。

またもや現代語訳と注釈での青息吐息的読了なので適当な話になってしまうかもしれないが、この世界はどんなものも繋がっており、隔てるものなどないので、生きとし生けるもの実は仏のさとりに他ならないと自分は読んだ「即身成仏義」。愚かなことに即身成仏というとあのミイラ仏などをつい連想してしまうんだが、即とはもちろんすぐ悟れるよ、というのが密教の売りだから直ちにという意味もあるんだけど、この身に即して、ということらしい。だから煩悩の雲を払えば私たちは仏そのものなのだ、ということらしい。
また「声字実相義」「吽字義」では言葉や文字が表層の意味を表すほかに隠された象徴を表すということが主張されている。だから、浅はかな解釈では見えない世界の象徴が実は仏のさとりや教えそのものなのであるという。
ちょっと汎神論みたいではあるけれども、言葉をも含めたこの世界すべてが繋がっていて即仏の表れというのは実は私大好きである。
みんなが実は仏そのものなんですよ、とか言われたらそりゃ悪い気はしない。
そういえば、「徒然草」だっけ?馬の脚を挙げさせようとして「あしあし」と言ってるのを聞いた明恵上人が「阿字阿字」といってありがたがって泣いたとか(うろ覚えですいません)というのはきっとこのことを言ってるんだろうと思った。
空海コレクション 2 (ちくま学芸文庫)
空海コレクション 2 (ちくま学芸文庫)宮坂 宥勝

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関連:「空海コレクション1」
ラベル:空海
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2012年03月05日

キリスト最後のこころみ ニコス・カザンザキス

カザンザキスが描いたイエス像はなんとも人間的な弱みにあふれている。彼は自分が神に選ばれたものであることを極力否定して逃げ回るのだが、とうとう年貢の納め時がやってきて、洗礼者ヨハネと語り合った後に本格的な活動を始める。
そのあたりのことは聖書に出てくるような話であるから省略するけれども、このあたりの描き方は火のような激しいヨハネと、水のように優しいイエスそのものがまるで二重人格のように振舞うのでこれまたよく知られているイエス像とはちょっと違う感じである。
よく知られているものと違うのはイエスだけではない。彼の使徒たちもまた人間的な弱みが描かれている。
イエスがメシアとなった暁には王座の右と左に座りたいという欲をもつものや、彼についていけばそのうちとてつもない恵みが得られると自分の商売をやめるもの、そんな情景がそこかしこに見受けられる。
そしてこの本である意味一番違う風に描かれてるのはユダであろう。
裏切り者は人間的に弱い部分があるとされるが、ここで描かれるユダは、他の使徒たちが結構ダメダメ人間に描かれているのに対し、一番情熱的で頼りがいのある男に描かれている。
そんな彼がイエスを裏切るのはなぜか?
こうしてみると、カザンザキスは聖書に出てくる彼らを逆説的に描いたのかな、という気がする。普通に読めば、これはキリスト教を信奉する人にとっては冒涜だろうなあと思わずにはいられないのだが、イエスの女々しさ、ユダの雄雄しさを初め使徒たちの軟弱振りを見ながらの十字架への物語を読むと、そこにはわれわれ人間と共通の心象が浮かび上がってくるのである。
著者は「キリストのきわめて人間的はその面に触れることにより、我々は彼を理解でき、また彼を愛し、彼の受難を、あたかも我々自身のものであるかのように感じることができるのである」と序に書いている。
そう、これは人間のもつ弱さを通じて訴えかけるカザンザキス流の聖書である。
キリスト最後のこころみ
キリスト最後のこころみニコス・カザンザキス 児玉 操

恒文社 1990-03
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ラベル:人間
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2012年03月03日

耳の日だが突発性難聴のようなものが治らない

今日は耳の日だが、突発性難聴のようなものについて書こう。

もともと左耳は耳鳴りがずっとしていて、以前検査したときにも高音域を中心に音が聞こえにくい状態だったのだが、2月のはじめに突然耳鳴りが大きくなって、めまいがし、トイレの水を流す音がおかしく聞こえたので、自分の声をだしてみると、左耳の聞こえがあきらかにおかしい、っていうか聞こえてないんじゃないこれ?
ってなことで、すぐに病院へいって検査。結果は低音域が聞こえにくくなっていて、さっそく点滴やステロイド飲み薬など治療を始めたのだが、今日現在聞こえはほとんど戻っていない。耳鳴りとめまいは幾分良くなったが、検査をすればめまいもまだ残っている状態だ。
突発性難聴、という診断はいわれてないけれども、まあそれに類した症状なので、便宜上そう読んでいる。
しかし、この難聴になってから、聞こえないということは単純に音が小さくなるものではないということが身に沁みた。
左耳の聞こえは現在、喩えるならばチューナーのあってないラジオの音のようなものだ。ある音は随分大きく聞こえるが聞こえない音もあるし、音自体もおかしな音程に聞こえるので、人の話は音を大きくしても聞き取れない。こんな状態では補聴器でも補えないので、これは大変なことですよ、などと思ったりする。

ところで、こういうことになる場合、ストレスとか結構関係あるようなことがネットをみると書いてあるんだが、私にはこれといって精神的なストレスはない。
ただ、身体的にはちょっとヤバい感じはしていた。
時は去年の8月にもどる。
左脚の股関節が突然痛くなって、広げられない状態になった。そのうち治るかなと思ったが治らないので、9月に大き目の整形外科へいったのだが、結果は痛み止めと湿布をくれるだけ。そのまま経過したけど、一向によくならないので、漢方を扱ってる整形外科へいって、漢方を処方してもらい、体を動かすようにと言われて一生懸命ストレッチなどしていて、まあまだ完全ではないもののだいぶ良くなった。
どうも、これは体が冷えてるのではないかと思って、1月の終りに朝飲んでいたコーヒーを止めてみたのだ。
そしたら、それから1週間くらいものすごい頭痛と眠気が襲ってきてほどんどものにならなかった。これはもしかしてカフェインの離脱症状なのかと思いつつ、1週間耐えに耐えて、ようやく眠気と頭痛がなくなった頃に、件の突発性難聴のようなものになってしまったわけである。

まあ、こういったわけで肉体的はかなりストレスがあったので、もしかしてこういうのが関係あるのかなあと考えたんだが、医者には聞いてない。笑われそうなので。
それはいいとして、私はふとおかしなことを考える。
人は、自分の治る病気治らない病気というのを無意識に知ってるのではないかということだ。
というのも、喘息や歯周病や、脚の痛みについては、おぼろげにどうすればいいのか方向性を見出すことができて、なんとか日常生活に支障のない程度にまで回復してるのだが、耳についてはその方向性を見出すことができなかったのである。しかも、「なんかこれ治らないような気がするなあ」なんて治療中ずっと勝てる気がしなかった。
もちろん、気のせいかもしれないが。

それにしても、左耳である意味ほっとしている。良いほうの右耳が突発性難聴で聞こえが悪くなったらどうしようもなかったもの。
とはいえ、片耳だけ聞こえるというのはおかしなもので、右を歩道側にして歩いているのに、車の音が後ろから聞こえてくると、車道側を見ないで、歩道側へ振り向いてしまうという挙動になってしまうのであった。
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