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2011年11月29日

禅と武道―叢書 禅と日本文化6

禅と武道について書かれた論文をまとめた本。武道は剣術ばかりではなく、弓や合気道なども対象になっていて、日本の武道は禅抜きには語れないのだなあという思いを持った。
ここに収録されてるのは13編であるが、その中で沢庵和尚の「不動智神妙録」について触れたものが結構ある。心を止めないということを、剣術にも当てはめて柳生宗矩に手紙を出しているという話なんだが、なるほどなあ。
禅のことはよく知らないが、無心ということをよく聞く。ただしこの無心は何事にも無関心の無心ではなくて、フロイトだったかが言った「平等に漂う注意力」というものに似ているのであろうと思う。
そういえば、カスタネダの本にも、ドン・ファンが、他人や自分を気にかける人間は助けることができない、他人も自分も気にかけないような人間だけが人を助けることができる、とか言ってたような覚えがあるんだが、あれも同じようなことからきているのか。
日本の武道はとかく精神面が重視されて、傍から見ているとばかげた感じがしないでもないんだが、あれは禅のばかげた感じであって、型を会得したあとで型から自由になる、そのためなんであろうか、とかまあ、わからないなりに、想像しながら読んだ。
ところで、武士道などという言葉を聴くと、今じゃ名を惜しんだり、卑怯な振る舞いをいましめたり、そんな寧ろキリスト教の騎士道みたいなものとあまり変らないようなイメージになってしまってるように思えるが、禅とのつながりを考えれば、卜伝先生の無勝手流みたいなのが、寧ろ武士道なのかも、とか、そうなると、こういう世界はとても面白くて好きだ。
ちなみに、無勝手流とは、卜伝先生が舟の中で乱暴な武士に絡まれたので、では立ち会うかということになって岸へついてから、お先にどうぞと相手を先に下ろしたあと、自分は降りずにそのまま舟を出させて立ち去ったという話。
禅と武道 (叢書 禅と日本文化)
禅と武道 (叢書 禅と日本文化)古田 紹欽 柳田 聖山

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2011年11月26日

惜別 太宰治

源実朝を近習の人が回想するという形で書かれた「右大臣実朝」と、魯迅の学生時代の学友がその思い出をしたためる形式で描かれた「惜別」の二篇が収録されている。

「右大臣実朝」
歴史はうといほうなので鎌倉時代のこともよく知らないが、実朝は軟弱で貴族のように過ごしてきたというイメージがある。それはどこで覚えたイメージなのかとんとはっきりしないのだけど、そういうわけなので、実朝というのはあまり有能ではなかったと思い込んでいた。ところが、ここでは教養人としての実朝は政治的にもきちんとした判断ができる人間として語られている。ただ、和田義盛の反乱において何かが変ったとこの近習はかたり、以後、私のイメージしていた歌舞音曲に溺れこむ彼の姿になるのである。
手腕ある北条義時は官僚的に語られ、公暁は屈託のある若者として語られる。その公暁が台詞には、屈託のある山師は京都という嘲笑的人間の集まる都会があっており、あれほど京の雅をいつくしんだ実朝はそれゆえに、京を恐れる田舎の人間なのである、ということが言われている。このあたり、人の心の裏の裏まで忖度してしまう太宰治らしいな、と思った。

「惜別」
この小説では魯迅は随分と自意識過剰な部分が見られる。手記の書き手と出会って宿屋で気炎をを上げたり、かと思えば、日本の歴史に瞠目し、それを伝えに東京へ行った後、帰ってきてから妙に屈託のある人間になってしまったり、浮き沈みが激しい。
実際の魯迅を知らないため、これがリアリティあるとかないとかよくわからないのだけど、最後の方、魯迅が文学へ傾倒してゆく場面において、語られる「文学とは無用の用」に関しての話は、さすがだなと思う。何の役にも立たないように見えて、人々の心に徐々に浸透してゆく。

この二篇はいずれも戦中に書かれたものだという。侍としてはあまり有能ではない実朝の美点や、魯迅の文学論など、当時の検閲に配慮するように見えて結構叛骨とか思った。このあたりあなどれない。ずっと戦争状態だったら、太宰治は自殺しないで微妙に叛骨的小説を書きながら生きてたかもなあ、なんて思う。
惜別 (新潮文庫)
惜別 (新潮文庫)太宰 治

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タグ:文学
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2011年11月23日

呪術師と私―ドン・ファンの教え カルロス・カスタネダ

私はいきなりシリーズ後半の本を読んでしまったが、本来ならばこの最初の本を読んでドン・ファンとのなれそめ(?)を知っておく必要があったな。
まあいい、とにかく読んだ。
前に読んだ2冊がこまかな教えなのに対して、これはドン・ファンがカスタネダに幻覚性のある植物を使って西洋の意識とは異なる意識のありかたについて教えたもので、カスタネダの体験と分析が書かれている。
レビューなどを見るとこの体験が実はフィクションではないのかという疑問も出てきているようなのであるが、学術的には問題だろうけど、一つの告白の書としてみた場合、フィクションかそうでないかはあまり問題にならないと私などは思うわけね。
というのも、扱ってる問題は主観といわれる人間が知覚し認識することについて、それが一つだけではないというところにテーマがあるんだし、もし、これがカスタネダの純粋な虚構だったとしても、じゃあ、カスタネダはどうしてそういう虚構を表現したのだろう、というところに話がくるのではないかと思うのだ。そして、人の想像力というのはあながちデタラメでなくて、デタラメのように見えてもそこに何かしらの関連みたいのが、つまり複合体、コンプレックス、もっといえば隠された意味、みたいのがあるのではないかと。
それにしても、ドン・ファンの世界は自然界と限りなく同化して、実に面白い。そして、この面白さは実は、カスタネダがこちこちの西洋文明観の持ち主で、ドン・ファンの世界をなんとか表現可能な風に理解しようと四苦八苦しているところからきているような気がするのであった。
呪術師と私―ドン・ファンの教え
呪術師と私―ドン・ファンの教え真崎 義博 カルロス・カスタネダ

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タグ:呪術
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2011年11月20日

石蹴り遊び フリオ・コルターサル

155の断章をつなぎ合わせて、不条理な世界を思索するオリベイラの行状が描かれる。ここで断章といったのは、はじめに断り書きがあって、56章までを真っ直ぐ読む方式と、支持される順番に従って小説を読み進めていく方法があるからだ。前者ではいわゆるオリベイラを主人公とした物語だが、後者ではモレリが作中で描く小説のごとき様相を呈して、話があちらこちらにとび、引用がどんどん出てきて、今のアドベンチャーゲームのような実験まで行っている。
かように前衛的な形式ではあるが、内容は西洋の世界観に飽き飽きしているオリベイラがまるで何かを打破、あるいは探求しているかのごとく皮肉、揶揄、自嘲、そんなもので彩られている。現代思想や文学が彼の仲間によっていろいろ語られるが、そんなものは何かの冗談みたいに振舞うオリベイラ。その様子はまるで、この小説が小説という形式を破壊したいという欲求と重なっているようにも思える。
ただ、作中でもトラベラーが言及しているように、ユングの思想が多分に援用されてるかもしれない。読み始めて、そのことを念頭においてみると、結構話のとっかかりのようなものが見えてくるのである。
といっても、もしかしたらそれは幻想なのかもしれないけど。
オリベイラの救いは救いようのない事柄からやってくる。いや、オリベイラは救われたのだろうか?
1960年代にはおそらく前衛的だったであろうこの小説も今読むとむしろ古典的にすら思える。それはこの小説に累々と続く文学の人間探求が見えるからであろう。いくら反文学といっても、それはやはり人間の営みには違いない。そして、二十世紀とは解体の世紀だったのだということが了承されてくるのであった。
石蹴り遊び (ラテンアメリカの文学 (8))
石蹴り遊び (ラテンアメリカの文学 (8))コルターサル 土岐 恒二

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2011年11月14日

上杉謙信は女だった 八切止夫

作品社の八切意外史シリーズ3巻目であって、例のごとく文献を徹底的に調べて著者自身がそこから組み立てた話を小説としたもの。武田信玄の生い立ちと、上杉謙信登場についてそれぞれ一章描き、川中島の合戦、そして結びで謙信女説を描くにいたったいきさつを述べている。
これもなかなか面白くて、八切止夫を読み続けてると、だんだんと伝奇小説における登場人物の荒唐無稽な行動心理があながち荒唐無稽じゃないのかも、と思えてくるから大変だ。
あの「夭説太閤記」における秀吉の行動原理も、「トクチョンカガン」での真田幸村の動機ももしかしたら、とか思えてくる自分はかなり影響されやすいことは認める。

そんなことはさておき、こうした通常の歴史観からみるとかなり突拍子のないような八切止夫の歴史の見方は立場によってその解釈の仕方は大いに変る、ということを感じていたところからのようである。
この本の「むすび」において、気になるエピソードが書かれていた。
著者が当時のソ連に渡ったときの話。船室のルーム・メイドに当たっていたニーナと二〇三高地の話になったときに、その解釈の違いに喧嘩別れしたというのだが、そのソ連側は二〇三高地をどう説明していたかというと、ナホトカ国営博物館では日本兵の屍山血皮の引き伸ばし写真が立てかけてあって、
「わが偉大な国民は、かくも圧倒的は戦果をあげた。勝利を勝ちとった。しかし平和を愛する労農大衆は、これ以上日本人を殺掠することを欲しなかった。だから和平を結んだ」
とプレートに書いてあったそうである。
こんな体験をしたならば、なにが真実なのか疑問をもつことも当然だろうと思う。だからといって、日本が正しいとかソ連が正しいとかそういうことは述べていない。ただ、日本の歴史は著者にとって大切なものだったから、それを守ろうとしただけだった、と苦い思い出を振りかえるのみ。
まあこんなエピソードを読むと、国際関係は一筋縄ではいかんよな、とか本書の中身をそっちのけに考えてしまうのであった。
上杉謙信は女だった (八切意外史)
上杉謙信は女だった (八切意外史)八切 止夫 縄田 一男 寺田 博 末国 善己

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タグ:歴史
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2011年11月13日

どつぼ超然 町田康

田宮のあたりをうろつきながらその印象をひたすら綴り続ける小説。毎度のことながらその内容はアホらしく、というとお笑いか愚鈍のごとき内容を思わせるがそうではなく、寧ろいつものことながら自意識過剰と自虐と屈折した思考が満載である。
こういうのって、面白いと感じてしまうんだけど、一体何を面白いと思ってるんだろ、自分?
と、つらつら考えることおよそ1時間。この1時間は買い物に出かけて用事をすませ帰って来る間のことであった。
で、結果としては、これはパンクは私小説なんだと、まあありきたりの答えなんだが、そんなところに落ち着いた。
私小説はあまり、というかほとんど読まない。「城崎にて」は私小説ですか?
よくわからないので、インターネットで調べてみると、なにやら「心境小説」という名前が出ている。
いや、これだよ、これ。
「どつぼ超然」は心境小説なんだ。パンク的な。

「東京飄然」ではなにも無い様に見えても串かつが一本少ないなどという事件はあった。しかし「どつぼ超然」には事件すらない。表面的には善良な市民が観光地を歩き、イベントを見に行き、街を歩いた、ただそれだけのことである。恐ろしく平凡な光景が、パンク的心境小説になるとカオスな異世界に変る。
この世界を面白いと感じるか、興味がないと感じるか。
だが、適当マントラについては微妙に意味が入ってるともっと良かった。そう考えるとタモリって凄いんだな。
どつぼ超然
どつぼ超然町田 康

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タグ:文学
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2011年11月12日

ローマの歴史 インドロ・モンタネッリ

西洋文学を楽しむためにキリスト教とローマの知識は押さえておいたほうがいいのだけど、ローマの歴史を手軽に俯瞰できるような本って、雑学のを除けばなんか見つけられなかったのだね。そんなときに本屋で見かけたこの「ローマの歴史」。ギボンとか七生さんとかの怖気づくような巻数に比べると、分厚いとはいえ一冊の文庫本。
この分量でローマを語れるのか?という疑問はあったのだけど、1冊ならまあそれほど時間もかからないし、ということで読んでみた。
で、どうだったかというと、これはもともとイタリアで書かれてるのだから、ある程度歴史の出来事やら人名やらを聞いたことがないとちょっと厳しい感じはするな。というのも、登場人物は諧謔で個性的に描かれているのはいいが、前提となる知識が自分には乏しくてその面白みがわからないからだ。
カエサル以前のことなど、ちーっとも知らん自分はハンニバルの記述をそのまま読むだけでこれが、雑学の本を少し下世話な調子で描いてある風にしか思えず、あまりピンとこなかった。ところが、これがシェイクスピアや、シェンキェヴィチや、ヤマザキマリや、辻邦生などで読んだ部分になると、ある程度のイメージを持ってるものだから、俄然その下世話さが輝きだして面白く読めてしまうのだ。
まあ、たった一冊でローマ2千年の歴史を語ろうというのだから、そうなってしまうのも仕方あるまい。
ということで、この本、全くの知識がないと、却って面白くないかもしれない。
著者も序文で書いてるとおり、いかめしいローマの歴史本ばかり目にして辟易した人のためのやわらかい本なのでありました。
ローマの歴史 (中公文庫)
ローマの歴史 (中公文庫)I. モンタネッリ 藤沢 道郎

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タグ:歴史
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2011年11月09日

悲しき熱帯 クロード・レヴィ=ストロース

民族学というのはあまりイメージできてなくて、植物学やら昆虫学やらのように、あちらこちらの民族文化や社会について集めて分類するものだという思いがあった。そんな考えを一気に改めさせてくれたのは、この本のおかげだといってよい。
これはレヴィ=ストロースがアマゾンに住む原住民を調査したときのことが回想とともに述べられているのだが、それは著者が旅行記として消費されるのを心よしとしなかったように、単なる物見遊山な記録なのではなくて、そこから考察される、著者自身の歩みと人間論といった類のものである。
レヴィ=ストロースはアマゾン原住民たちの生活を見ながら、そこに自分自身の所属していた社会に似たものを見る。それは階級社会であったり権力の構造であったりする。
正直、私も偏見は人一倍強いため、原住民は素朴な社会生活を営んでいるのだろうと思っていた。しかるに、彼らが貧しいのは物質的な生活だけなのであり、社会生活もなんら変わるところがないのではないだろうかという思いを新たにした。
レヴィ=ストロースは、そのあたりの考察が巧みである。最後の章で述べてるように、彼自身、調査中に思い出すのは彼の住んだ国の風景であり、時に気にしていなかったショパンの調べであり、つまり、異文化を調査することによって、自分の文化が強く想起されるのに至っていたのだ。
この本の中で、ローマ法王にあったポロロ族の男が、キリスト教式の結婚をさせられそうになって危機に陥りそうなところを救い出されて再び自分の部族へ戻ったときに誰よりもその文化を率先して生きているという話が出てくる。
異文化を知るということで、自分自身の属しているものがなんであるか気にかけるようになるということはよくあることだと思うが、究極はどんな学問も自分自身を知るために行われるのであって、知識だけの収集は学問の一側面でしかない、ということなのだろう。


今回読んだのは1977年出版の単行本だが、現在は新書にまとめられてるようなので、そちらの本を紹介しておく。
悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)
悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)レヴィ=ストロース Claude L´evi‐Strauss

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悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)
悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)レヴィ=ストロース Claude L´evi‐Strauss

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タグ:文化 民族
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2011年11月04日

ペスト ダニエル・デフォー

1665年に起きたロンドンのペスト流行について当時の週報に載った死亡者数も引きながら何が起こったのか詳しく書き記している。
これ、最初ドキュメンタリーでデフォーが体験したことを記録したものだと思い込んで読んでいたのだが、途中、ふと彼の生年が1660年であるのを目にして、ノンフィクションと早とちりしていたのに気が付いた。とはいえ、当時を知る人から話を聞いたり、資料を調べたりして書いてあるそうだから、事実を元にした小説なのではあるのだが、いや、それにしても、吉村昭も目じゃないくらい、ドキュメンタリータッチなので凄いなあと思った。
何が凄いかって、デフォーは一連の出来事に人間の個的描写を一切抜いて描いているということだ。小説といえば、大抵は登場人物の心理が書かれていたり、いわゆるかけがいのない個の物語を含んでいたりするが、デフォーは、心理描写を全くといっていいほどしていないし、個の物語に見えるようなものも、その登場人物は個性ではなくて、人間というサンプルであり、名前がついていてもそれは便宜上の記号にしか過ぎないのである。
こう書くと、この小説は無味乾燥で共感できないと思われるかもしれないが、共感はともかく、人間の本質と生態がよく見えてきて、ああ、人間と言うのはこういう行動をする存在なのだなあ、というのが深く感得できるのである。
こういうの何か読んだことがある、と思って、考えてみたところ、わかった、山田風太郎の「同日同刻」。事実だけがある目的のためにずらりと書かれているだけなのだが、そこから、歴史の動きがダイナミックに見えてくる、あの感じだ。
唯一例外なのが、信仰に対するもので、デフォーは主人公の姿を借りて、この災厄と信仰のことを関連させながら書いてるのがところどころ散見できる。そのあたりは無神論者ともいえる私には同じ口で迷信を批判していたのとは信じられない二重基準を感じてしまうんだけども。
ペスト (中公文庫)
ペスト (中公文庫)ダニエル デフォー Daniel Defoe

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タグ:災厄
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