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2011年10月31日

曼陀羅の人(上)(中)(下) 陳舜臣

マイブームが空海なので、主に空海についての小説をぼちぼち読んでいる。陳舜臣のこの本は古本屋で見かけて、初めて知った。で読んでみたわけなのだが、スポットを当ててるのは空海の入唐時のことで、空海の行状とともに、当時の唐の社会情勢なども詳しく描写されているところが素晴らしい。
当時、2年の間に皇帝が2回も交代しているという激変、側近は人によって違うので、皇帝が変れば、失脚し、死を覚悟しなくてはならないという唐の宮廷は恐るべきものがある。そんな激動の宮廷ドラマが空海を介して描かれているのである。
もう一つ空海を介して描かれているものに、国際的都市長安におけるさまざまな宗教のことや、恵果和尚のことなども描写されている。
タイトルのように、おそらくこれは空海を中心とした唐社会のマンダラ図を描こうとしたのであろうと推察した。
私は、恵果和尚が床についてから雨が降り続けるシーンで恵果が「この雨はわしのために降り続いておるのじゃ」と言ったときに、ある僧がその意味を空海に尋ね、空海がこう答えたのが心に残る。
「雨を降らすのは天であります。師はそれを深く理解しておられるのです」「雨は誰のためにも降ります。あなたのためにも」
曼陀羅の人―空海求法伝〈上〉
曼陀羅の人―空海求法伝〈上〉陳 舜臣

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曼陀羅の人―空海求法伝〈中〉
曼陀羅の人―空海求法伝〈中〉陳 舜臣

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曼陀羅の人―空海求法伝〈下〉
曼陀羅の人―空海求法伝〈下〉陳 舜臣

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タグ:空海
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2011年10月28日

五輪書(宮本武蔵) 鎌田茂雄訳注

文庫本1冊におさまる五輪書は意外と短い文章なんだなと思った。
中は一応自分用の覚書として書いておくと、二天一流の見方について書いた地の巻、型や構えについて書いた水の巻、戦い方を書いた火の巻、他流についてその欠点をのべた風の巻、最後に真実の道へ至る空の巻となっている。
水の巻については構えの具体的な形についていろいろ述べており、剣豪小説に出てくるような構えのシーンなどを思い浮かべながら読むと、門外漢も結構とっかかりがあって興味がつきない。
だが、日常生活において、参考になるだろうと思うのは、地の巻における大工のたとえと、戦うときの戦術を指南した火の巻だろう。
適材適所を見極めること、心理面で優位にたって勝負をものにするための方策がここには描かれている。
特に火の巻では先手を取るために相手の追廻方法や、膠着したときの打開策、とにかく先手をとれと武蔵は指南する。そのためには状況を的確に見極めできるようにしなければならないが、そのために鍛錬が必要だと説くのである。
また、武蔵がえらいなあと思ったのは型というものは決まっていないというところだ。状況に応じてそれは変わるものであるから、相対的なことはいえても絶対というのはないというところ、いたく同感。まったく、マニュアルは便利だが、マニュアル絶対主義は物事に弊害をおよぼす。
鍛錬。工夫。そのいわんとするところをよく味わう。五輪書の文末はそういう文言で埋まっている。目的を知ったらそれを工夫するのは自分なのであろうなあ。
五輪書 (講談社学術文庫)
五輪書 (講談社学術文庫)鎌田 茂雄

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2011年10月25日

空海 三田誠広

前に司馬遼太郎「空海の風景」を読んだが、空海の人となりというものがあまりかかれていなかった。三田誠広もあとがきでそのようなことを述べていて、この著書では「空海伝説」を物語として書き上げたということになるのだろうかと書いている。
司馬遼太郎の著書と比べる意味はあまりないのであるが、確かにこの本においては貴き物と呼ばれた幼少時代のことや、山岳修行のこと、唐へ至るまでの空海の所業が小説とはいえ、親しみやすいかたちで書かれていて、一つの空海像をイメージしやすい。
私は今まで空海関係の小説をこれを含めて4つ読んだだけなのでこういう言い方は的を射てないかもしれないが、オーソドックスな空海像を知るには格好の小説なのではないかと思った。
それに、当時の有名どころ、坂上田村麻呂やら和気清麻呂などの交流が描かれていて、歴史ロマンを刺激するような部分もある。
著者はこの小説の後に、「謎の空海」という一般向けの解説書を出しているが、そちらには小説の中での著者が調べ上げたことと、想像力の部分が解説されているし、図版もあって丁寧な説明があるので、併読すれば本書もかなり理解しやすくなると思う。
実際、先に「謎の空海」を読んで、興味をもったので小説も読んだのであるが、先に小説を読んでいたら、小説には図版がないので、曼荼羅の説明はわかりにくかったと思う。

ということで、あまり空海のことを知らない人には一般的な知識が盛り込まれていてわかりやすいからとっつきやすいのではないかと思う。
空海
空海三田 誠広

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謎の空海―誰もがわかる空海入門
謎の空海―誰もがわかる空海入門三田 誠広

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タグ:空海
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2011年10月23日

クルイロフ寓話集

寓話といえばイソップやラ・フォンテーヌあたりが有名で、クルイロフも注釈によればその二人の著作から題材を借りてきている話もいくつかある。
ところで、この二人と、クルイロフの違いとはなんだろうかと思うに、帝政ロシア社会を批判したような肉食獣と草食獣の関係に尽きる。
アホなロバとか狡猾な狐はともかく、熊や狼など搾取しまくる獣と搾取されまくりの羊。
たとえば、巻一13の「狼と子羊」では水を飲もうとした子羊が狼に絡まれまくって最後に食われてしまうという話とか、巻八22の「ライオン」においては、布団がほしくなったライオンが毛のふさふさした熊や狼に布団を作るよう命じるが彼らは自分たちの毛を一毛も提供することなく、草食獣からかき集め、あまつさえ、自分たちの布団までつくってしまう始末。
こういう不条理がところどころ書かれていて、当時の帝政ロシアの重圧をうかがうことができる。
また、著者自身の解釈や、注釈がつくことによって、この寓話がどんな出来事を諷刺しているのか説明されていて、当時のことがうとい私にもわかりやすく、これはありがたかった。
しかし、こういった注釈つきの寓話を読んでその意味するところがわかると、これは帝政ロシアに限ったことでなく、事実上特権階級のある社会ではどこでもあることでもあるし、そういう意味では普遍的な人間の姿を写しているともいえるなあと思った。
完訳 クルイロフ寓話集 (岩波文庫)
完訳 クルイロフ寓話集 (岩波文庫)クルイロフ И.А. Крылов

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タグ:寓話
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2011年10月21日

徳川家康は二人だった 八切止夫

なんだかんだいって、八切止夫も4冊目を読んでしまいました。なんというか徹底的に資料を検証してその矛盾点をてこに小説を仕立てていってるのが興味をひくんだな。
「徳川家康は二人だった」は、タイトルのとおり、家康という人物が実は二人いたのではないかという話。どういうことかというと、家康は改名しているが、改名前の松平元康と改名後の徳川家康は別人であるという。徳川家康が複数いたという話は隆慶一郎の「影武者徳川家康」でもあったけど、あれは関ヶ原で影武者とすり替わったという設定。
しかし、なんで徳川家康に複数説で小説が書かれるのかというと、村岡素一郎というひとの書いた「史疑徳川家康事蹟」という本があって、それに触発されたらしいということが解説で書かれていた。
まあ、それはともかく、本書は徳川家康となる人物の若き頃の奮闘物語である。
また、この小説にはもう一つ物語が平行して書かれていて、それは何かというと、若き織田信長の物語である。
といっても、八切止夫のことだから、もちろん通説の姿ではない。
著者は折に触れて、戦国時代の宗教戦争について語っている。日本にも原住民である神徒と渡来系の仏教徒の宗教戦争があったというのである。「黒白をつける」といえば神道系の白と仏教系の黒を分けるということが言葉の初めだという説や、えーと、他にもいろいろあったけど、まあ、そういう話を書いていて、織田信長は神徒系の生まれなので、仏教徒を激しく憎んで弾圧した、という設定なのである。こう考えるとなるほど、なかなかすっきり収まってくるなあ、とは思ったものだ。
もちろん、ここに書いた話が全くの空想物語と著者が言っているのではないし、だからといって正しい解釈だといってるわけでもない。でもこうなってくると伝奇小説まであと一息。このきわどさが楽しい。
徳川家康は二人だった (八切意外史)
徳川家康は二人だった (八切意外史)八切 止夫 縄田 一男 小和田 哲男 末国 善己

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タグ:歴史
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2011年10月19日

信長殺しは、秀吉か 八切止夫

前に「信長殺し、光秀ではない」という本を読んだが、それは著者が文献を読み込み、通説に疑問を称えたものだったのだけど、こちらの本は、その知りえたことについてフィクションとして仕立てたものである。
この本の主人公は、信長の末弟、織田有楽斎。あまりメジャーな人物ではなく、私もいくつか読んだ歴史小説のイメージからして、なんとなく変節に変節を重ねて生き延びていったような、あまりいい印象ではなかったような記憶がある。おそらく世間の相場も私とそれほど違ってはいないだろうと思う。
この有楽(本書内で使われてるので以下こう記す)、実は信長殺しの真相を追って世間の陰口にもめげず、生きてきたのであったという設定になっている。
そもそも、後継者を決めるとき、彼は一人だけ生き残った臆病者という噂を流されて意図的に後継者争いからはずされたふしがあるということになっているのである。また、運が良いのか悪いのか、真相を探るうえでもやることなすことがどうも本人の思惑とは違うものになってしまう、という人物として描かれていた。
なんというか、あまりかっこよい人物ではないのだけど、彼の立場から見える歴史は確かに秀吉や家康の立場とは違うものになったであろう。また、彼がキーマンとめぼしをつけたような人物たちも歴史に埋もれてしまったような人物が多い。
歴史とは一筋縄ではいかないものである。例えばこの情けない人物として見られてる有楽だって、この本の設定のように、本当に陰謀によって評判を落とされてたのかもしれないのである。まあ、あまり行過ぎるとなんでも陰謀論になってしまう怖れはあるのだけど、一つの出来事を一つの見方しかしないというのは少々危険ですらあるように思う。
さて、有楽が思い描く容疑者は次々と変ってゆく。そして最終的に秀吉にしぼられていくわけであるが。
信長殺しは、秀吉か (八切意外史)
信長殺しは、秀吉か (八切意外史)八切 止夫

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タグ:歴史
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2011年10月17日

夢見の技法―超意識への飛翔 カルロス・カスタネダ

オカルト本とかトンデモ本のようにみえる内容の本は小説と謳ってない限り、どうも低く見られがちなのであるが、ユングのいうように無意識における出来事を表現したものだというふうに考えると、なかなか興味深いものがある。しかもこの本は夢の話。どんなに貶められようともきっと興味深い話が読めるだろうと思って読み始めたが、なかなかぶっとんだ幻想小説といっていい内容だった。
ユングでは夢分析をするときに、よくわからなかったものや恐ろしくてよくみることができなかったものに対し、次はよくみるように、という指示が与えられるそうだが、カスタネダの修行もそれに良く似ていて、夢の中で注意力を働かせるということから始まっている。
夢の中で夢だと気づくことや、全くの未知の世界へ飛ぶことは普通の夢でもよくあることだ。ただし、呪術ではそれがリアルと幻影に識別するように求められるという。この場合リアルとはわれわれの生きている物理世界だけでない、別のエネルギーを所持している世界をも含めている。
こうして、夢見の技法は夢と現実の堺を飛び越え、さらに人間の通常の意識をも超える技法となるわけであるが、このあたりがなかなか一般的についてゆけないところだ。だが、ユングが錬金術を物理的なことでなく、心理的に解釈したように読むことで、これが荒唐無稽なことでなく、カルロス・カスタネダの体験した心の出来事という解釈をすることができる。
こういう解釈はもしかすると著者本人にとっては本意ではないかもしれないが、私がこの手の本を読むときの安全弁はこういう読み方なのである。
まあ、保守的と笑ってください。

それにしても、最終章は幻想小説みたいだ。自分は一体どこにいるのかわからなくなるような多重性の夢。
関係ないけど、ジュリーの「危険な二人」の「恋」を「夢」に変えて歌いたくなる。
♪今日までふたりは「夢」という名の〜、
 旅をしていたと、いえるあ〜なたは〜
なんてね。
夢見の技法―超意識への飛翔
夢見の技法―超意識への飛翔カルロス カスタネダ Carlos Castaneda

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タグ:呪術
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2011年10月14日

凱旋 フランチェスコ・ペトラルカ

ダンテ、ボッカッチョ、とくれば次はペトラルカ、ということはつい最近知った。前者二人はとりあえず有名どころを読んだので、ではペトラルカも、ということで「凱旋」
この詩は、詩人がラウラへの愛の苦しみから幻想へ誘われ、愛や名声、そして死や時をつかさどる神々たちの凱旋を見る、と言う形で書き進められている。
最初の「愛の凱旋」ではアモールに捕らわれた人々が列を作って進んでいく有様が。そして自分もその苦しみに耐えかねている場面が描かれる。
次の「貞潔の凱旋」では詩人の想いに落ちることなく貞潔をまもったラウラとアモールの戦いが描かれる。ラウラと共に戦うのは《誠実》や《思慮》や《習性》といった徳といわれるものの面面である。
さて、そうして次に「死の凱旋」が語られる。そこではラウラの死と、死後、彼女が詩人に語る様子である。
そして「名声の凱旋」。ここでは死後も名を残す人々が連なって登場する。その後「時の凱旋」「永遠の凱旋」と繋がってゆく。

ダンテの「神曲」が徹頭徹尾ダンテの考える正義と、当時のキリスト的価値観によって描かれて随分勇ましい内容になっていたのと比べると、こちらはかなりやわらかい。あるのは詩人の愛や名声などの世俗的な悩みと、それをいかに乗り越えてゆくのかというキリスト教的教訓が融合した内容になっている。これを読む限り、ペトラルカという人物は心やさしい人物なのではないかと思ってしまう。
愛の凱旋や名声の凱旋において登場した有名人は私にはよくわからない人も多かったけれども、仮に日本の歴史的人物がずらずら並んでいたとしたら、この凱旋がもっと面白く興味深くなるのだろうな、とは思った。それでも、聖書やギリシャ神話の人物が何人か出てくるので、全くわからない、というほどではなく、そのあたりの興味で読みすすめていったようなものだ。
愛も死の前には壊れ、名声も時の流れには勝てず、消えていくとペトラルカは謳う。だからこそ、キリスト教の最後の審判が来たとき、全ては復活し、ラウラと天上にてめぐり合う至福を夢見る詩人なのであった。
ペトラルカ 凱旋
ペトラルカ 凱旋フランチェスコ ペトラルカ Francesco Petrarca

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2011年10月12日

八切意外史1と7 八切止夫

「信長殺し、光秀ではない」という本をちらほら見かけて、なんとなく気になってたので今回読んでみたところ、いや、なんというかどえらいノンフィクションノベルであった。
これは著者が幼い頃、本能寺の変についての芝居だかをみて心に刻み込まれた鬱屈が、後年22年もの年月をかけて調査することになった、そのまとめである。膨大な資料を読みこんでの検証は凄まじいものがあるが、間にはマカオへ出かけての自分の私小説みたいなシーンや、その中でのケネディ暗殺についての話題などが入ってくるので、純然たる歴史モノを期待していたのとちょっとあてが外れた感はあるものの、それにしても、なんだか情熱とその膨大な知識でぐいぐい読ませる。ここに表明されてるのは、歴史とはどうしてもある立場に拠って偏りができる、それが権力を握れば、別の視点の資料などは失われてしまう、ということであった。
まあ、主だった資料が江戸時代の贋作だったり、リライトが粗雑で話が変ってしまった、などと言い出すので、これもまた一つの立場なんだろう、とちょっと苦笑してしまうところもあるのだけど、しかし、美少年森蘭丸というイメージは明治に作られたとか、当時の宣教師たちが持ち込む武器や火薬に注目した点など、ああ、なるほどなあと思うことも多い。
結局歴史なんてものは教えられたものを鵜呑みにしちゃいかんのだ、なんて教えてくれる本ではある。

さて、「謀殺―続・信長殺し、光秀ではない」では先ほどの本を受けて、家光の出自と春日局の正体についての考察がこれこそ小説形式で繰り広げられている。
国松を世子からはずされた江与の鬱屈と推理、そして謹慎となった忠長の鬱屈と推理、これらが、ある人物たちの昔語りから徳川家の秘密が浮かび上がってくる。
この推理と昔語りが面白くてぐいぐいと読ませる。
そして、この秘密は信長殺しは誰なのか、ということへ繋がってゆくのである。

私は歴史に疎いので、これらの話が信じられるとか信じられないとかそういうことはいえないのだが、多数決によって真実が決められてしまうような研究のしかたに意義をとなえる著者の姿勢には賛同する。なにより、もっともらしくわかっていることですら、別の視点で捉えられた言い分にはもっと敏感になって歴史を捉えることは、しばしば歴史から物事を学ぶ人間にとっては必要なやり方なのではないかと思うのである。
信長殺し、光秀ではない (八切意外史)
信長殺し、光秀ではない (八切意外史)八切 止夫 縄田 一男 末国 善己

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謀殺―続・信長殺し、光秀ではない (八切意外史)
謀殺―続・信長殺し、光秀ではない (八切意外史)八切 止夫 縄田 一男 末国 善己

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タグ:歴史
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2011年10月07日

意識への回帰―内からの炎 カルロス・カスタネダ

世の中にはたくさんの呪術的な教えがあって、それが一つ一つの文化となっている。宗教にしろ呪術にしろ、その教えは普段の私たちの思考回路とは違うため、それが荒唐無稽だの、比喩だのはなはだしきはインチキとかデタラメまで、いろいろと言われてしまう。
だが、この間も大江健三郎の「ピンチランナー調書」で書いたように、一つの想像力としてそれが人間の危機的な状態のときの新たなる思考であるとするならば、何かしら意味はあるのではないかと思う。
そういう意味において、私はこのヤキ・インディアンに伝わる教えを読んでえらく惹かれるものがあった。
カスタネダの本は何冊かあって、私はこの本がシリーズで初めてなのだけど、ドン・ファンたちの陽気な物腰、何事も深刻に捉えない様子は彼らの教えにクリアな透明さを感じさせるものであった。
イーグルの放射物に食われないために、最後に自由になるため、内からの意識を燃焼させて全体性の意識へと向う、というあたり、仏教の解脱にもよく似ているのだけど、その設定となる世界観はドン・ファンたちの教えのほうがなんとなく趣味にあうのである。それは単に仏教の本がよくわからない言葉で書かれているので私がイメージできないというアホさ加減にあるのかもしれないが。

私は死が恐ろしい。しかし、カスタネダはドン・ファンからかつてこう聞かされた。
「私たちに起こる最悪なことは、死ななければならないということだという。そして、それは私たちの避けられない運命だからこそ、私たちは自由なのだという。すべてをなくした者は、恐れるものなど何もないのだ。」と。
意識への回帰―内からの炎
意識への回帰―内からの炎カルロス・カスタネダ 真崎 義博 Carlos Castaneda

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2011年10月05日

ピンチランナー調書 大江健三郎

作家に送られ続け、それを書き起こしていく、という形式で描かれる、森と、森・父の「転換」物語は、一見核をめぐる革命運動や政治活動を徹底的に諷刺し、笑いのめすような展開ですすんでいく。
そこにはどのような形であれ「世界を変える」という運動にありがちな権力志向の滑稽な部分をずいぶんと誇張して書いてあってなかなかに痛快である。
しかしながら、大人になった脳に障害をもつ森と、ティーンエイジャーに若返った森・父のコンビは、宇宙の意思を遂行するものとして選ばれたという意識とともにある大物を倒す企てをしている、その中にありとあらゆる価値の両義性というか逆転がみられる。
ありていにいえば「森」は聖別されたものとしてそこに立ち現れるのである。
そして、その「森」の正反対に位置するのが「大物A氏」であって、最後に彼の馬脚が現れるところなどはちょっと見ものであったな。
言葉もしっかり操れないような虚弱な体をもって生まれてきたことに対して、どんな意味があるのか、その一つの想像力がここにある。
確かにそれは誇大妄想的な想像力かもしれないけれども、人間の不幸や災厄についてその意味を問うとき、常識ほど無力なものはない。
なんのために想像力が人間に与えられているのか、そんなことを考えてしまう小説であった。

(追記)さきほどメディアマーカーに書いた感想も載せておこう。
人間には誰にでも「森」のような存在があるのかもしれず、それが「転換して」人は大人になった「森」に追従して使命へとかきたてられる、そんなことがあるのかもしれないと考えた。
ピンチランナー調書 (新潮文庫)
ピンチランナー調書 (新潮文庫)大江 健三郎

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2011年10月02日

ペスト アルベール・カミュ

人間に襲い掛かる災厄をペストという形に託してそのありさまを描いた寓話としてのペストはちょうど第二次世界大戦が終わった時期でもあり、当時の人々に生々しく訴えかけていたであろうということは想像に難くない。
しかるに、またしても3月11日以後の日本の話になってしまうが、そういう災厄を受けてしまった以後、やはりこの小説は生々しく訴えかけてくるものがある。
災厄が始まったとき、最初はごく軽い事項として扱われたのが、時間を経るにつれて実は重大なことであったと認識されるように至る経緯、災厄前にあった生活が失われてしまった災厄後の人々の感情など、ああ、なんだかこれはあの3月11日以後によく似ている、と思わずにはいられなかったのである。とりわけ目についたのは、ペスト死亡者数の発表を週単位から日単位に改めたくだりで、そこにはタルーのメモとしてこんな風に書かれている。
「新聞と当局とは、ペストに対してこのうえもなく巧妙に立ちまわっている。彼らは130は910にくらべて大きな数ではないというわけでペストから得点を奪ったつもりなのである」
ああ、このくだり、なんとなくあの事故後政府が発表する数値に似てはいまいか。
そんなことを拾い読みしていると、災厄に対する人間の反応というのは昔からあまりかわっていないのだと、思い知らされる。

しかし、「ペスト」はそんな類似性だけの寓話ではない。ここにでてくる個別の人々、彼らの振舞い方に、危機に対して人は何をどう考え行動するのか、行動すべきなのか、そんなことも書かれている。医者リウーの誠実、タルーの理性、グランの拠り所、パヌルーやオトンやランベールの変化。中でもパヌルーたちの変化はそれが裁きや自己の都合による判断から目の前にある不幸に対して自分ができることはなんであろうかという考えのほうに変化していることがなんとも救いである。一方、このペストを喜んでいるようなコタールは行き詰まった自分の人生に他人も同じように巻き込まれたという思いからきているのだが、全くこういう人が描かれているのをみるとやりきれなくなる。犯罪者は死者より孤独なのであろうか。
ペスト (新潮文庫)
ペスト (新潮文庫)カミュ Albert Camus

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タグ:不条理 寓話
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