2011年08月27日

孤独な散歩者の夢想 ジャン・ジャック・ルソー

タイトルで惹起されたイメージはルソーが散歩しているときに思いついた思索の断片が書かれているのかと思ったが、それはどちらかというと結果論的であって、主として書かれているのは追放され、孤独になったルソーが心の平和を保つことができるようになった、そのいきさつやら、人生を振り返っての思い出などを語っているものであった。
ルソーはいう、この運命に抗うよりは甘んじるようという決心で、このあきらめの中にあらゆる不幸の償いを見出したと、それはあきらめのために得た静謐だと。
ルソーの逆境を私はよく知らないが、社会全体から白眼視され、迫害されていると再三にわたって自身で書いていることをそのまま信じるとするならば、それは確かに生半可ではない苦労である。そのような状態では人間全体を恨むこと、これは容易に想像できる。だが、ルソーはもうそんな人間たちのことを考えるのをやめてしまったというのだ。
そして自然の中になぐさめを見出し、自分を知らない人たちとのちょっとしたふれあいに歓喜を覚えるという生活を送っている。
ルソーの思索も私はよく知らないし、本来はルソーという人のことをある程度知っていたほうがこの本は興味深いものになるのかもしれないが、知らなければ知らないなりの読み方というものがあると思う。
ここには天才といわれたり、物議をかもし出すようなことをした人間でもなく、一人の孤独の中に慰めを見出している人間がいるだけである。それはもし自分が孤独に陥ったときに、ひとつのモデルとして読むことのできるものであって、人という存在のいたましさが伝わってくるものなのである。
究極的には人は自分の孤独を自分でなんとかするしかない。
ルソーの場合は、それをあきらめの中に見出した。
孤独な散歩者の夢想 (新潮文庫)
孤独な散歩者の夢想 (新潮文庫)ルソー Jean‐Jacques Rousseau

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タグ:人生
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2011年08月23日

調書 J.M.G.ル・クレジオ

私たちが通常、あるモノやコトを認識するときには何かしらの装飾がくっついてくるな、ということをこの本を読んでおぼろげに感じる。
例えば、ある男女が絹猿について、かわいいとか意地悪とかいっているシーンがある。主人公、アダム・ポロはそんな二人の会話にこう割って入る。「やつはかわいくも意地悪くもないんですよ」「やつは絹猿なんです」
男はここで笑い出し、女は肩をそびやかすけれども、この絹猿が絹猿であること、このような捕らえ方は通常なかなかできることではない。
アダム・ポロにとって世界はそれ自体がそれ自体のものであると見ようとして傍からは奇行としか映らなくなる。だが、彼は別にふざけているわけでもなさそうだ。
そして、彼が目の前の動物に変容していくのは序の口で、やがて彼は全ての存在に偏在するようになっていく。そこには絶対的な均一と化していった不気味に見える彼の存在があるだけだ。
後半、こうなった果てに病院へぶち込まれたアダム・ポロと学生たちの対話がある。しかしそこで著者が書いてるのは物事を自分の理解できるように曲解することを心理分析に託して描いたことであり、その茶番とくだらなさがあらわになって私を呆然とさせる。
冒頭、著者はこの物語がすべて作り事として受け取られて欲しいと書いている。これは遊戯小説、あるいはパズル小説なのだと。
そこには確かに物事を認識するさいの注解めいた、人が普段するものの捕らえ方は見受けられない。
人は現実に物事をありのままに捉えることは不可能である。だからこそあのような結末になったのであろう。
最後まで読んで、私はこれを理解することを止めた。
調書
調書J.M.G. ル・クレジオ J.M.G. Le Cl´ezio

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タグ:文学
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2011年08月20日

モモ ミヒャエル・エンデ

有名どころは少しずつ読んでいこうと思って、今回は『モモ』を選んでみた。
内容はいろんなところであらすじを読んでいるので、「ほほう、これが噂に聞く時間どろぼうって奴らか」などと思いつつ読み進めていったが、なるほど、工業化と経済化に伴う社会の変遷が巧みに寓話化されていて感心した。
こういう中で、浮浪児であるモモがいかに重要な役割を果たすのか、これもまたうまく描かれていて感心する。
こういうありきたりな感想はいろんなところで述べられているだろうから、今さら自分が改めて書くまでもないのだが、やはり書かずにいられない。
経済社会の発展に伴って、人間は人間自身をも家畜化し、均一化することで生産性の向上を図ってきた。当然そこには個人の違いというものは極力排除される。
個人の違い、それはその関係性にある。関係性とは個々の違いによって成り立つといってよい。全く同じものであるとそこには同一性だけがあり、別の者同士が関連することによってできる第三の者が成立しない。その第三のものこそが人が人として生きるための賦活剤だったりするのである。この第三のものが無駄だと封じられたとき、人はどう生きていこうと意志するであろうか?
それでも、日々生きていくうちには、自分のやってることがわからなくなり、これをもっと有意義にできたらなあ、と思うことがしばしばある。時間どろぼうはそこにつけこむわけである。
なんか適当なことばかり書いてしまったが、いつも役に立つような記事をかけない私への応援物語だなあ、などとひとりごちるのであった。
モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語 (岩波少年少女の本 37)
モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語 (岩波少年少女の本 37)ミヒャエル・エンデ

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タグ:寓話
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2011年08月18日

阿部一族・舞姫 森鴎外

新潮文庫で収録されてるのは以下のとおり。
『舞姫』『うたかたの記』『鶏』『かのように』『阿部一族』『堺事件』『余興』『じいさんばあさん』『寒山拾得』
『鶏』がやけに面白い。解説では俗人受けするユーモアがあるということであったが、主人公の軍人の浮世離れしたたたずまいと、彼の家に仕える人間の俗っぽさの対比が笑いをさそう。鴎外は別にユーモアとして書いたわけではなさそうなのだけど、結果的に親しみやすい小説になっている。
ところで個人的に印象に残ったのは『堺事件』と『寒山拾得』。堺事件のほうは処刑において名誉を保たせるために切腹での処刑が執り行われるが、その様子をみていたフランス公使ご一行様が驚愕のうちに途中で席をはずしてしまい、あとで処刑をやめて助命を請うところが印象深い。鴎外は切腹の場面を詳しく描き、フランス人たちの場面はさらりと流していているが、文化と文化のぶつかるところ、じつにワンダフルではあるなあ、と今やフランス人の心境に恐らく近いであろう私などは考える。
ほんと、切腹ってものすごい風習だよな。
『寒山拾得』はどこまで信じていいのかわからん。鴎外は最後にこの話の説明として当時メシアと自称していた男の話を持ち出して子供に説明したということではあるけれども、信仰と言うのは嘘と真の間に真理があるような気がしないでもないから、寒山と拾得はもしかしたら~~なんて思わないでもないんだよね。この辺のあいまいな結末がとても好きだ。
阿部一族・舞姫 (新潮文庫)
阿部一族・舞姫 (新潮文庫)森 鴎外

新潮社 2006-04
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タグ:明治文学
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2011年08月15日

緋文字 ナサニエル・ホーソーン

昔むかし、姦通事件というのは重罪ではあったが、この小説の主人公たる女性の場合死罪にはならず、罪の証である緋文字を胸につけてさらしものにされたあと、ずっと世をはばかって生きることに定められた。殺人などとは違って道徳観念の犯罪であるからその生きる姿を描くことはとりもなおさず、人間の中にある自然と法律の問題を浮かび上がらせることになる。
この小説には三人の主要な人物がそれぞれの役割を演じる。一人目は今書いた女性で社会から逸脱し、結果疎外された人間。それからこの女性の姦通相手。彼は共犯者であることを世間から知られておらず、しかも社会的に地位のある人物であるが、その犯した罪を隠していることによって、大変な精神的肉体的負担を負っている。そしてもう一人が、女性の元夫で、姦通相手にめぼしをつけて、じわじわと彼に復讐をする男。
読みすすめていくうちに、この姦通相手と元夫が女性の立派さにつりあわないほどダメな弱さを発揮する。姦通相手はことが露見することを恐れてびくびくしているし、元夫は復讐の鬼と化した挙句に邪悪な容貌に変わってしまうほど憎しみに心を乗っ取られてしまった。
このダメさ加減は女性の奉仕と謙譲の生活となんと対照的なことか。
それというのも、女性が今までの社会的制約から心の自由を得ようとしたのに対し、男性たちは社会的な束縛からとうとう心を解き放つことができなかったからである。
社会的な立場がどうであれ、そこから自分の心を自由にしたものは強い。もちろんそれは社会的逸脱を奨励するということではなく、その社会の価値観が果たして絶対のものなのかどうか。良心は決して法律や道徳に従っているものではないということを示しているように思える。
この柔軟性は女性が姦通相手に一緒にこの町をでようと提案したときに、こんなセリフをいったことに見出される。
破滅の残骸は、それが起こったところに、おいておくべきです!そんなものにかかずらうのはおやめなさい!なにもかも新たにやりなおすのです!このたったひとつの試練のために、あなたは未来のあらゆる可能性を使いつくしてしまったのでしょうか?…

とはいえ、相手はこの女性のような強さをもたなかった。ゆえに秘密が暴露されたとき最期を迎えてしまうのであった。
それは元夫も事情は似たようなものである。
人の気高さと社会的規範というものは必ずしも一致しないものである。
完訳 緋文字 (岩波文庫)
完訳 緋文字 (岩波文庫)N. ホーソーン Nathaniel Hawthorne

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2011年08月12日

黒頭巾旋風録 佐々木譲

タイトルにひどく興味を引かれて手にとってみた「黒頭巾旋風録」。
和人の圧政と虐待に苦しめられてるアイヌを救うため現れた黒頭巾だが、バッタバッタと悪人どもをなぎ倒す痛快時代小説を思いきや、どちらかといえば社会派的内容になっている。
黒頭巾の活躍を楽しむというよりは黒頭巾が黒頭巾として登場せざるおえなかった事情を考えてしまうような、当時の状況がよく書かれているのである。
正直この小説の中でも書かれているように、黒頭巾だけの活躍では状況を変えることは難しいであろうが、なにかのきっかけとなってアイヌたちが解放されるよう希望をもって終わっている。もちろん、私たちはその後のことを知っていてこれがまた厳しいものであるのだが、叛骨のヒーローが生まれる背景というものを一度良く考えないといかんなあと思った。
私は北海道で生まれて、小学校の時は社会の時間副読本で地元の歴史をならう。しかし、今は知らないが、当時の北海道の歴史の授業といえばこれはなんと明治維新の開拓史から始まっているのである。それ以前のことについてはちっとも触れていない。
まあ、当時私もぼんやりした子供だったのでそれがどういうことなのかというのを深く考えず大きくなってしまった。
ゆえに、稗史といえども江戸時代の蝦夷地の話はまるで前世のように思えてしまって自分の浅はかさを思い知る。
著者は他にも北海道の歴史についての小説を書いているみたいなので、いずれ機会があればそちらを読んでみたいところだ。
黒頭巾旋風録 (徳間文庫)
黒頭巾旋風録 (徳間文庫)佐々木 譲

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タグ:時代小説
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2011年08月10日

スーフィーの物語 イドリース・シャー編著

スーフィーは教えを物語に託して語るのだそうである。この本はそんな物語を集めた本である。
一読して結構似たような話を読んだことがあるなあと思った。「群盲象を撫でる」の話だとか、「一炊の夢」に良く似た話が出てきたり、あと話を知らないけれども、物語の後ろに載ってる小さな解説を読むと、西洋の文学やアラビアンナイトで出てきた話などもあるそうである。
果たしてスーフィーの伝承が他の文化にも影響を与えたのか、他の文化からスーフィーが選んで教えの物語としたのかは定かではないけれども、少なくともここに収集されてる物語は随分面白いものが多い。
例えば、私が気に入った話では31―水の上を歩いた男などは、ちょっとした小話みたいで笑ってしまう。簡単に説明すると、
信心深く真面目なダルヴィーシュが哲学的道徳的問題に集中しながら歩いていたとき、突然修行のために繰り返される声が聞こえてきたのだが、その繰り返しの言葉がちょっと間違ってるというので、わざわざ水辺を渡ってその声の主を探しに行く。そしてその主に正しい言葉を教えたあとに、また舟にのって戻ってくる。ところでその言葉を唱えながら修行しているとやがて水の上を歩けるようになるらしいのだが、せっかく正しい言葉を教えたのに、件の人はまた、以前と同じ間違った言葉を繰り返すのだった。そこで真面目なダルヴィーシュは人の過ちを正すことの困難さを思った。
と、彼は不思議な光景を目にしたのである。さきほどの人がこちらに向って水の上を歩いてやってくるではないか。びっくりして舟を止めると、さきほどの人は彼にこう言った。
「お手数かけてもうしわけないが、さきほどあなたが教えてくださったあの正しい唱え方をもう一度教えてもらえないだろうか。私にはどうしても覚えられないのだ。」

スーフィーの教えによると、人の理解度によって物語は違う姿を見せる。また、物語だけでなく実際人の理解度についてテーマにした話もいくつかあった。
人は自分がどのくらい理解しているのか、ということすらわかってないことが多いのだな、とそれらの物語を読んで感じる。
神秘主義の話は確かに理解を超えることが多いのだけど、それは単純にトンデモな場合もあるだろうが、自分が理解していないためにそれらがわからないということもあるのだ、と改めて自戒しようと思う。そして、もし、トンデモ話に限らず、他人がやることについて、そういう自覚が多少なりともどの人にも備わったのであれば、もう少しこの世もましになるのではないかとも思う。
スーフィーの物語―ダルヴィーシュの伝承 (mind books)
スーフィーの物語―ダルヴィーシュの伝承 (mind books)イドリース シャー Idries Shah

平河出版社 1996-07
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タグ:イスラム
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2011年08月07日

モロー博士の島 H.G.ウェルズ

解説によれば、この小説は「退化」についての寓話だということもできるそうだ。後半、モロー博士の作り出した獣人たちがだんだん人間性を失っていくところなどを読むと、ああそうだなあと思う。
それもそうだけど、この小説は随分読む人の想像力をかきたてているのではあるまいか。
科学の行過ぎた行いに警鐘を鳴らすということもその一つだろう。
ところで、私が刺激された想像力は、他ならぬ獣人たちのことである。
この小説では獣人たちの全体と、何人かの描写はあるものの、それほど個々に詳しく書かれているわけではない。これをねっとり詳しく描写していったらどんな具合になるだろうなあ、などと一人思ったのである。
まあ、私の想像力などたかがしれてるので、書くには及ばないが、この小説ですら、主人公になつく獣人が元セントバーナードであったり、敵対するいやらしい獣人がハイエナと豚の混合獣人だったりと、いくらか一般的に人間が動物に寄せるイメージと重なっている。
このあたりの性格や関係など詳しく書き記したら、擬人化に伴う人間の戯画になったりしてそれはそれでまた風刺的なものになるな、などと考えていた。
実際、最後の場面においてはこの獣人と主人公の関係で主人公が受けた衝撃がそのまま持ち越されてしまうのである。これなんかも一種の皮肉的な描写なんだろう。
案に相違してモロー博士がそれほどマッドに見えず、話を設定するための装置にしか見えなかったのも、おそらく自分がそんなことばかり考えていたせいに違いない。
モロー博士の島 (創元SF文庫)
モロー博士の島 (創元SF文庫)H.G. ウェルズ H.G. Wells

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タグ:SF
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2011年08月02日

鍵・瘋癲老人日記 谷崎潤一郎

若い頃は身体のことをあまり考えずに過ごすことができたが、年をとると多かれ少なかれ不如意な状態で生きてゆかなくてはならなくなることが往々にしてある。そうなってくるとますます不如意のために思う存分楽しめなくなった欲望に火がつくこともあるのだろう。
『鍵』『瘋癲老人日記』はそんな老年の状態を純粋化して取り出して小説にしたようなものだ。
『鍵』に出てくる男性はまだ老年というには早いような50代だけど、早くも己の肉体に弱さを感じている。それをかきたてるつもりなのかどうか知らないが、妻が自分の日記を盗み読みしていると感じ、そのことを利用して、夫婦生活についていろいろと書き始める。と思ったら今度は妻の日記も出てくるのであるが、これもまた夫が盗み読みしているだろうという推測のもとに読ませるがための日記をつけるのだから、なんともまあ手の込んだことである。
そして、妻は夫の意を汲むような行動をとり始めるのだから、これはもしかして非常に回りくどい夫婦愛なのか、とも一瞬思えてしまうのだが、いやしかし想像だけが肥大した欲望というものはかくも凄まじいものだと思ってしまう。
『瘋癲老人日記』はそんな想像だけの欲望で肥大する老人をさらに喜劇的に描いている。身体がままならぬ老人の、息子の嫁に対する愛着と、実の娘たちへの嫌悪、身体の苦痛、そういったもので満たされた日記形式の小説だ。
その嫁に対しての愛着振りがまた度を越していて、まさに女王様と奴隷状態、いや、奴隷というよりスターと崇拝者といったほうがいいのか。かくも必死な老人の行状を読んでいるとなんというか、笑いそうになりながらも、生きるということは生半可では済まされないような凄みもそこに感じてしまう。
鍵・瘋癲老人日記 (新潮文庫)
鍵・瘋癲老人日記 (新潮文庫)谷崎 潤一郎

新潮社 1968-10-29
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タグ:人の業
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