2011年05月30日

統合失調症と宗教 星川啓慈・松田真理子

サブタイトルは「医療心理学とウィトゲンシュタイン」。星川氏が主にウィトゲンシュタインの心理について考察し、松田氏が統合失調症の幻覚妄想と宗教イメージの類似についていくつかの論を提出してる。各章の間には二人による対談があって章と章の橋渡しをしているという構成になっている。
勉強不足でウィトゲンシュタインについては著作も触れたことがないので、星川氏の考察についてはなにもいえないが、ただ、思想と人との間に心理的な要因が意外に重要な位置を占めているらしきことが言われており、思想それそのものを理解することも大切だろうけれども、その人の人となりを知ることで思想のその意味が腑に落ちることは十分ありえるだろう。

松田氏が担当している統合失調症と宗教の類似については興味深く読ませてもらった。感覚的にその2つが似ているということは思うのだけれども、実際に患者のイメージを聞き取り、そこに宗教や文学などのイメージとを比較してみるとそれが実感できる。
松田氏の論はこの類似性を確認するところで終わっていているのだが、しかし、この類似にはいったいどんな意味があるのだろうと考えてしまう。
ユングの元型という考え方もあるだろうが、あの、人によってはとてつもなく偉大な力を発揮して人々に奉仕する宗教体験と、恐怖し、自らが壊れてしまう統合失調症の幻覚妄想。自分がなくなるという点では共通しているが、この2つを分ける要因とはなにか。
そもそも、宗教性とは一体なんであるのか、私にはそんな疑問も浮かんでくるのである。
それは共同幻想なのであろうか、それとも人が未知のものに達する未知の機能なのだろうか?
統合失調症と宗教
統合失調症と宗教星川 啓慈 松田 真理子

創元社 2010-01-16
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ラベル:精神疾患 宗教
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2011年05月25日

田園の憂鬱 佐藤春夫

この小説には「或いは、病める薔薇」というもうひとつのタイトルがあって、都会から喧騒を逃れて田舎に引っ越してきた青年が、またぞろ憂鬱症に教われて、いろんな幻覚をみたりするものなんだけど、自分のその弱弱しさと、引っ越してきた家にあった日の当たらない薔薇とにその姿を重ね合わせて描写してるような内容なので、こちらのタイトルのほうがしっくりくるんだけど、なぜか本に使われてるのは「田園の憂鬱」。このタイトルだとなんだか漱石が描く様な世間に悩む人間を描いたものを連想してしまって、やれどこそこの人にたかられただの、やれどこそこの人はうるさいだの、そんな感じの話を想像してしまう。まあ、そういう場面もなきにしもあらずなので、このタイトルでもいいのかもしれんが、浪漫派不朽の名作というのであれば、やっぱり「病める薔薇」のほうがそれっぽい。

不朽の名作と本の紹介には書いてあったが、自分にはいまひとつピンとこなかった。いや、主人公の幻覚がわからないとかそういうことではない。むしろスタンダードで西洋文学に見かけられるドッペルゲンガーなんかもあって、それらの幻覚が幻想的な、という意味で紹介してるのかなあ、と自分では解釈している。
ただ、私自身、これが優れてるなあ、と思ったのはそういう部分ではなくて、その幻覚と田園の風景が相即関係にあって、うまく描写されてる部分である。
もしかしたら、そういう部分も含めて名作と紹介してるのかもしれない。
とにかく、いくらでもやってくる蛾のことや、ひとりっきりの場面光もない場所で気配に神経質になる様子や、遠くで聞こえる列車の音など、田園の風景が主人公の心に暗合する描写に単なる内面描写小説ではない、風景そく心象風景という日本の俳句や短歌に通ずるものがあるなあと思ったのである。それは主人公の心が風景に象徴されているという意味ではなくて、風景と心象が一体になっているということである。
田園の憂鬱 (新潮文庫)
田園の憂鬱 (新潮文庫)佐藤 春夫

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ラベル:人間
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2011年05月24日

マリー・アントワネット(上)(下) シュテファン・ツワイク

著者はマリー・アントワネットを一平凡人が数奇な運命に投げ込まれて偉大になったという。それはどういう意味なのかと読み始めたが、読みすすんでいくうちに、それが納得できてきた。
とにかく、若い頃には随分と遊びまわって浪費し、自分の感情のままに人事に口出しをして人民の憤りをかったことには違いない。その理由の一つとして、ツワイクは夫婦生活の不首尾を上げているが、いずれにしろ、特権を手にしたものの責務についての自覚は皆無で、この点がまさに平凡人であるのだというのである。
しかし、平凡人も運命の抗いがたい試練によって自分自身が何者なのか知ることがある。アントワネットの場合、それは王妃として、あるいはハプスブルグ家、マリア・テレサの娘として自分が問われているのだということがわかるのである。
上巻ではいまだ自覚しない若い彼女が、そして下巻では自覚した彼女の幽閉生活が語られる。

マリー・アントワネットの生活を通して、当時の王政の腐敗振りが目に付く。ルイ15世が崩御したとき、国民が新国王に熱烈な歓迎を送ったという。しかしその16世は残念ながら優柔不断で決断ができない人物であった。王政がゆるぎないものであれば、彼のようなものでもうまく乗り越えられたかもしれないが、世は行き詰まりを見せていていたので、アントワネットの浪費やでたらめな人事が明らかになるにつれて、王政は急激に傾いてゆくのである。このあたりはなんだか不思議な気がしないでもない。マリア・テレサの娘が若いときにこんなに愚かであったのはなんだかフランス王政にとどめをさすような運命の手が働いてるように思えたからである。もちろん、それは後からみたセンチメンタルな想いにしかすぎないのであって、個々の動きが大きなうねりをつくり、やがてそれが個人の上に降りかかってくる、この時代と個人の関係はときとして、天才的な人物に劣らないほどの物語を平凡人の上に投げかけることがあるということなのだろう。
マリー・アントワネット〈上〉 (岩波文庫)
マリー・アントワネット〈上〉 (岩波文庫)シュテファン・ツワイク Stefan Zweig 高橋 禎二 秋山 英夫

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マリー・アントワネット〈下〉 (岩波文庫 赤 437-2)
マリー・アントワネット〈下〉 (岩波文庫 赤 437-2)シュテファン ツワイク Stefan Zweig

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ラベル:伝記
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2011年05月20日

旅人 湯川秀樹自伝

寺田寅彦や中谷宇一郎のエッセイを読んで、文系とか理系とか分けることの馬鹿らしさを思ったのだが、湯川博士の自伝を今回読んで、その思いは一層強くなった。
父方も母方も学者系の一族で、幼い頃は祖父から素読を学んだという家庭環境。そして幼い頃からの読書は濫読だが、西洋文学や中国の読み物まで幅広い。いわゆる科学的な読み物はあまりなくて、自分でも理系に進むとかそのようなことは考えていなかったという。
これらの学者に共通なのは最初から理系に進むつもりで勉強してきたわけではなく、多種多様の書物に親しんでいくうちに、自分の疑問や興味のあることが自然に絞られてゆき、最終的に進路が決まっていったということである。
そういう意味であまりあれを読むな、これを読め、などと大人が指図するのも良し悪しだなあと思った。小説などはよく槍玉にあがったりするけれども、創造的な学者に必要な想像力というのは小説抜きに養うことができないんじゃないかと思う。

それはそうと、若き小川青年(湯川博士の旧姓)は随分と無口で内向的な青年であった。父親に何を考えてるかわからないと思われ、危うく大学進学を阻まれそうになったことすらある。他人と社交的に付き合えない性分は損だろう。
しかし、優秀な思考力と想像力はもしかしたらその性格から生まれたものかもしれないと思うと、その性分が損だとも一概にいえなくなる。
湯川博士の業績を考えるとき、人の性分というのはなにが良くてなにが悪いのか一概に決め付けることができない。すべてを平均的にできるように教育するということは、実は家畜を育てているようなもので、独創的才能をつぶしているのかもしれないということは誰か書いてたのを読んだ覚えがあるけれども、そんな思いを強くした。
旅人 ある物理学者の回想 (角川ソフィア文庫)
旅人  ある物理学者の回想 (角川ソフィア文庫)湯川 秀樹

角川学芸出版 2011-01-25
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ラベル:自伝
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2011年05月18日

宇宙意識への接近 春秋社刊

このところ、人間の意識関係の本ばかり読んでるような気がするなあ。今回の『宇宙意識への接近』も1985年、第9回トランスパーソナル国際会議の講演を編集したものであって、数々の方法から人間のもつ自我を超えた意識についてのいろんな話を読むことができて面白かった。といってもあまり感想思いつかないかなあ、と思いながらメディアマーカーや読書メーターに登録していったら、結構思いついたので、最近このブログを更新してないことを理由に短いけれどもそれを転載しておく。
1985年第9回トランスパーソナル国際会議講演を編集したもの。心理学だけでなく、科学や歴史宗教など多彩な内容だった。地球が一つになるという講演者の話などはちょっと古さを感じさせるがデカルト的な参照のある世界、あるいは人間を分解できる機械とみなす発想などの弊害を説いてるところなどは今でも、傾聴に値する話である。

まあ、15年以上前の話なので古臭いところはしょうがない。地球が一つになるというのはもちろん国が一つになるということと同義ではあるまいが、言い古されてしまった感があるからなあ。寧ろ、個人的には文学のように、地域あるいは個人を極めていくところに普遍性が表れるという感じがいいんだけど。
何かいてるんだか自分でもわからなくなってきたので、この辺で。
宇宙意識への接近―伝統と科学の融和
宇宙意識への接近―伝統と科学の融和河合 隼雄

春秋社 1986-04
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ラベル:人間
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2011年05月14日

統合失調症 森山公夫

統合失調症は脳の病気なのだろうか?
著者はそんな疑問を投げかける。
本書は統合失調症の症状によく見られる迫害妄想を取り上げ、これが統合失調症の単なる副次的な症状ではなくて、寧ろ迫害妄想と裏表の関係にある誇大妄想とセットにして、極めて人間的悩みの極北としての病という位置づけから考察を深めている。考え方としては精神疾患はいくつもの病気があるのではなくて、精神疾患共通の症状である気分失調・了解の失調・欲動の失調のうち前景化するものが異なって別の病気とみえて現れるのだという汎精神疾患論があり、精神疾患とは身・心・社会的疾患であって、脳の異常とはそれらの疾患の結果であるとしている。
つまり、狂気とは生きる上での苦悩の極北の姿としてとらえ、これこそが本来あるべき精神医学の方向である、と考えているのである。
精神医学には詳しくないけれども、なんでも薬で治そうと新薬がぞくぞくと出てくる今日、医学界ではあまり注目されない考えだろうなあ、なんて心配してしまうけれども、症例をいくつか取り上げて、解説してく中身は文学的で下手な小説よりよっぽど面白い。
だって、症例の妄想って、ちょっと舞台を変えればハリウッド映画や推理小説に出てきそうな内容だもの。そして、人々はそんな映画や小説を好んで読んでいるではないか。
そう考えると、患者の妄想は現実として荒唐無稽なのではあるが、そこに何か人間的な意味があるのではあるまいか?著者はそのことが念頭にあったように思える。
残念なことに、迫害妄想から統合失調症の現象についての解説だけに終始して、実際の治療方法までには言及されていないし、精神分析ではないけれども、これでカウンセリングなど行った場合、時間がかかるだろうなあ、ということも想像できてしまう。
となると、てっとりばやく症状を抑えることのできる薬はこれから増えることはあっても減ることはなさそうだ。そして精神疾患は脳の病気だという認識はますます広まるだろう。それは病気を特定個人に還元してしまって、とじこめてしまうことになるのではあるまいか。
精神疾患は社会的な要素を無視できないと私は思う。そういう意味でこういう考えの医者が何人かでもいて、警鐘を鳴らし続けることは大切なのではないかと思うものである。
統合失調症―精神分裂病を解く (ちくま新書)
統合失調症―精神分裂病を解く (ちくま新書)森山 公夫

筑摩書房 2002-08
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ラベル:精神疾患
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2011年05月13日

獄中記 オスカーワイルド

獄中記というタイトルから、塀の中の懲りない面々やその生活を作家の眼から厳しく観察するという内容を連想してしまうのだが、ワイルドは流石に違った。自己の退廃的な生活から引き起こしてしまった裁判沙汰に負けて監獄に入ってしまうのだが、その苦しい2年半の生活の最後の数ヶ月、彼は苦悩や苦痛が自己の魂に出会わせ、深みのある人生とはなにかを知らしめてくれるとし、イエス・キリストのことを考察しながら、己の人生観について懺悔するのである。
正確には、同性愛の相手といわれた人物への手紙がこの作品の姿なのであるが、個人的内容を除いて、ワイルドの死後5年後に出版されたこの本は痛ましい美しさを放ちながら、読むものに人生の苦しみについて問いかけてくるものである。
ワイルドといえば私が読んだことのあるのは『サロメ』『幸福の王子』の2作品だけ。随分と耽美的な感じだなあ、と思ったのだが、奇妙なことに人生の痛ましさが両作品ともに感じられて、この人は随分とつらいことを見聞きしたのか、そういうことに敏感なのかと思ったのである。
ところが、今回この本の解説を読んで、それらの作品が獄中の人になる前の退廃的な生活に身を委ねていた頃に書かれたと知ってちょっと驚いた。ワイルドは快楽に身を任せながらも、心のどこかで痛ましい人生の美しさについて何かしらの感慨があったのではないかと思われる。

私の読んだのは、角川で1989年に出版されたリバイバルシリーズで、本文は80ページにも満たないものなのであるが、なんと読むのに3日もかかってしまった。旧仮名旧漢字使いということを考慮に入れたとしてもかなり遅い。こんなに遅いわけは、その中身がゆっくり読まないと頭に入ってこないという事情による。頭悪くてすいません。
獄中記 (1951年) (角川文庫〈第60〉)
獄中記 (1951年) (角川文庫〈第60〉)オスカー ワイルド 田部 重治

角川書店 1951
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ラベル:人生
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2011年05月09日

密林の語り部 マリオ・バルガス=リョサ

ペルーのことをしばし忘れようとフィレンツェにやってきた私は、あるギャラリーでアマゾンの部族たちを写した写真展を見かける。そこで1枚の写真に釘付けになるが、それはマチゲンガ族が輪になって語り部の話を聞いているというものだった。

少数民族や部族と、西欧社会の形式をとっている集団との交流についてはいつも問題がつきまとう。この小説でもそれは取り上げられていた。彼ら少数部族にはいわゆる文明を教えて同化させてゆくのが果たしてよいことなのかどうか。むしろ彼ら独自の文化を壊さず、そのままにしておくべきではないか。
この問題は難しい。主人公の友人でマスカリータと呼ばれたサウルは過激なまでの文化擁護主義である。彼に言わせれば、言語学者たちが一緒に彼らと生活しながら研究をしていくことですら、それは内側から彼らの文化を破壊し、腐らせてしまうものだと。確かに、小説の中ではこれら言語学者たちの中に聖書をマチゲンガ語に翻訳するというような試みがあるという話も出てきてるし、それは彼らの文化の中にキリスト教を持ち込むということになろう。ただ、それが破壊になるかどうか、私には判断できない。
だが、これは文明に触れてない部族と文明社会だけの問題ではない。およそ民族が複数あればそれに似たような問題は起こりうることでもある、というのはこの小説の中の重層的な構造をつくっていることから想起される。
この小説の中には語り部が語っていったらしい、マチゲンガ族の神話や物語と思しきものが主人公の身辺の話と交互に描かれる。その話たるや、時空を超越して今の話と昔の話、語り部自身の話と人から聞いた話、そしてたくさんのタスリンチたちの話が融合してまるで幻を見ているような不思議な雰囲気が出ていて、この部分がこの小説の読みどころでもあろうかと思う。
密林の語り部 (新潮・現代世界の文学)
密林の語り部 (新潮・現代世界の文学)マリオ バルガス・リョサ Mario Vargas Llosa

新潮社 1994-02
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【追記】2011.10.15に岩波文庫から刊行されました。
密林の語り部 (岩波文庫)
密林の語り部 (岩波文庫)バルガス=リョサ 西村 英一郎

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ラベル:民族
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2011年05月04日

清貧の思想 中野孝次

古来から日本文化を形成してきた文化人たちの質素な暮らしとその思想を紹介しながら、日本文化の一側面として持たない生き方が尊ばれてきた、ということを外国人向けに話したことを中心にまとめられている。
出版はバブルの余韻残る1990年代初めの頃。バブルがはじけたとはいえ、今に比べればまだまだ日本は右肩上がりの生活を志向していたといってもよい。ということで、清貧についても今のような日本社会の行き詰まりから提案していたわけではなく、拝金主義日本を批判して精神性の高かった文化人たちの心意気をなぞるような気持ちでこの本を書いたのだろうと思われる。まあ、昔の流行り本を今読むということはなにかしらタイムスリップのような面持ちがする。
だからどことなく違和感がないわけではないのだけど、私などは日本文化について市井の外国人と似たようなレベルの教養しかないから、ここに紹介されている文化人たちの話は非常に面白くてためになったといってよい。
正岡子規が紹介していた幕末の歌人橘曙覧、子規の本では歌の批評しかしてなかったのでどういう人なのかさっぱりわからなかったのだが、ここでその人となりと歌が紹介されていてどんな人なのかわかったし、池大雅って名前だけ聞いてたけど、どんな人なのか知らなかったのもわかったし、すごく勉強になりました。
清貧の思想
清貧の思想中野 孝次

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ラベル:日本
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2011年05月03日

心の病理を考える 木村敏

木村敏2冊目。今回の本は前に読んだ『時間と自己』からさらに話を発展させて、生命論や進化論のことにまで及んでいる。著者自身は私小説ならぬ私精神病理学を書いてしまった、とあとがきで述べていたが、これがかなり面白かった。
『時間と自己』においては「コト」「モノ」を時間の捉え方という観点から論じていたのだが、この本の中に出てくる生命論では個別の生命ビオスと集団の生命ゾーエーという観点を提供して、話を進めている。
私たちは自分個人の命をかけがえのない一回きりのものだと思うのと同時に、種全体としての無名性の中の命というものも持っている。これは魚や鳥の群れなどを考えるとイメージしやすい。まるで一つの生き物のように振舞うその群れのように、人間もまたそういう一面があるという。そして自己とはその個別と集団のあいだの懸け橋それなのである。ニーチェは人間は橋だとかいうことを「ツァラトゥストラ」かなにかでいってたような気がするが、それのことだと思う。さらにすすめて、統合失調症(精神分裂病)はその「あいだ」の病理ということがいえるのではないかというのである。この「あいだ」というイメージは個別と集団だけに限らない。こころとからだについても同じようなことがいえる。これは私の解釈違いかもしれないが、共時性という言葉があるけれども、こころとからだの相即関係は共時性ということなのかな、なんて思った。
例えば心身症について、あれは心が原因で体が不調になったとかいう因果関係ではなくて心がこういう状態のとき、体がこんな状態である、という風に考えたほうがいいのだろう。そうすればよくある気合論などは誤解の上に成り立っているともいえるし、また体の病にしろ心の病しろすべてがからだの異常からきていているのだからなんでも薬でOK、という考え方にも限界があるということがおのずから理解されてくる。
進化論についてはさらにSFみたいで面白い。分裂病ウイルス説を紹介して、人間の今ある自己認識という働きももしかしたらウイルスによる変異によって起こったものかもしれない、ということを書いている。これはにわかには肯いがたいがあり得ないことではないとも思わせる。まあ、胃潰瘍だってピロリ菌が見つかる前にはストレスなどが原因だとされてきたものなあ。世の中にはまだまだわからないことが多いのであります。
心の病理を考える (岩波新書)
心の病理を考える (岩波新書)木村 敏

岩波書店 1994-11-21
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ラベル:人間
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2011年05月02日

宮沢賢治詩集 岩波文庫

「春と修羅」の序があまりにもぞくぞくとくる。
実をいうと、一番インパクトがあったのがこの序だったのであとの本編?っていうか詩がちょっとかすんで見えたり。
だからといってつまらないかというとそうでもない。
確かに教養不足の私にはよくわからない学問上の名前がたくさん出てくるところに苦労したりはするけれども、自然、人々、そういったものをうたうその向こうになぜか紺青の宇宙の姿が見え隠れするのである。この印象をうまく説明してくれるのが、他ならぬ宮沢賢治の詩そのものの中にあった。
『生徒諸君に寄せる』という中に出てくる一節。
衝動のようにさえ行なわれる
すべての農業作業を
冷く透明な解析によって
その藍いろの陰といっしょに
舞踊の範囲にまで高めよ。

この精神がまさに、賢治の詩の中に見出せるものであって、しかしだからといって高みから冷ややかに見下ろす類の詩なのではない。
こうした宇宙を観ずる様なものの他に、人を扱ったユーモラスなものも見受けられる。
『国立公園候補地に関する意見』という詩は私のお気に入り。
火山そばのこの土地を地獄に見立てて作ったらどお?みたいな。
誰なのかなあこのパンをおあがりなさい、としゃべってる人は。どこかの商人か?役人か?
読んでいて「地獄レジャーランドwww」と私の頭の中はそんな感じ。
なんでも観光資源にしようとするそのたくましい人間もまた宇宙の姿の一つなのであります。
宮沢賢治詩集 (岩波文庫)
宮沢賢治詩集 (岩波文庫)宮沢 賢治 谷川 徹三

岩波書店 1979-01
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